稲村ジェーンを、もう一度


 朝、遅れ気味に家を出ると学校を休むことを決意した上で電車に乗った。
晴れた夏の日は、学校へ行くのがもったいなくなる。
特に今日みたいな乾いた爽やかな風が吹く日は学校にも行かず遊びにも行かず、
とにかく家から出て自然な風だけを感じていたくなる。
だから今日も学校をサボって海を見に来ていた。
 晴れた夏の日にあたしが決まって降りる駅は、稲村ヶ崎。
緑色の小さな箱みたいな電車に乗って目指すこの駅は華やかさとは縁遠いけど、
何故だかあたしは好きだ。
改札口を出て国道に通じる坂道を下ると目の前には海が広がり、そこが稲村ヶ崎
海岸だ。特に美しい海岸ってわけじゃないけど、海岸から見える江ノ島を眺めな
がらそのあたりをブラブラと歩いたりすると気分が軽くなっていく。
 あたしのお気に入りは、真っ青な空に白い入道雲、遠くに見える江ノ島という
コントラストを眺めながら、携帯プレイヤーで音楽を聴くことだ。
でも、残念ながらそんな整った景色は滅多に見ることができない。晴れていても
どこかどんよりとしていたり、空は青く晴れ渡っているのに海が荒れていたり、
稲村ヶ崎の海も他の海達と同様にかなり気まぐれかもしれない。
 あたしは携帯プレイヤーで音楽を聞きながら揺られた小さな電車を降りると、
コカ・コーラとバナナヨーグルトとタマゴサンドイッチの入ったコンビニの袋を
振り回しながら改札を出る。地元の藤沢駅近くのコンビニで買ってきたコカ・コ
ーラはボトル缶とバナナヨーグルトのカップは表面に大量の汗をかき、タマゴサ
ンドイッチのパッケージフィルムをびしょ濡れにしていた。
特に今日はカラカラに暑いから、コカ・コーラが美味しく感じるに違いない。た
とえそれが少しぬるくなっていても、幸せは半減しないと思う。
 国道へ続く坂道とは逆に進むと、青い空に映える、黄色い建物が見える。
そこは有名なイタリアンレストランで、地中海の景色をあたしのなかに植え付け
ていくような印象のその店はあたしのお気に入りだ。とても料理も美味しくて、
何故だかペペロンチーノをにんにくととうがらしのスパゲティという名前で出し
ているところが好きだ。
でも、今日はお金もないし、ただ海が見たくてきただけだから、そう言い聞かせ
て坂を下り、国道の先に広がる海に目をやりながら海岸を目指した。
 あたしが稲村ヶ崎海岸を好きな理由は、ただ静かだから。それだけ。
あたしの住むローカルな神奈川にはいくつも有名な海岸があるけど、例えばサー
ファーが多くて賑やかなのは片瀬東浜とか、稲村ヶ崎の前後にも七里ヶ浜とか由
比ヶ浜とか、まあ色々とあるけど稲村ヶ崎海岸は本当に静かだ。
サーファーが少ないから、目障りな障害物を見ずに海だけが見れるし、騒がしく
ないことが精神にとても良い。
それに、公園の展望台から見る景色が本当に綺麗だと思う。稲村ヶ崎海岸から海
岸線を綺麗になぞるようにして江ノ島までが見えて、明かりが灯った夜の江ノ島
も綺麗だ。由比ヶ浜にもここと同じ名前の公園があるけど、全然こっちの公園の
方がいい。由比ヶ浜はなんか落ち着かないし、鳶にハンバーガーを奪われていく
バカな観光客になんて興味はない。あちこちにちゃんと鳶に注意の警告があるの
にそれを無視する観光客が悪い。それに、圧倒的に海岸や町をゴミで汚していく
のは観光客だ。観光地の街ほど落ち着けない場所はないと思う。
 あたしは海岸まで下りていくと、スカートが汚れるのも気にせずに直接地べた
に座ると、海を見ながらコンビニで買ってきたものを食べようと袋をあさった。
海には僅かに人がいるけど、目障りになる数ほどじゃない。
青く澄んだ空を見上げると鳶が旋回している。鳶はコカ・コーラやヨーグルトに
は興味はないけど、パン類とかは喜んで持って行ってしまうから海岸とかで何か
を食べるなら日傘を差していればそれなりに効果はある。
バッグから携帯の日傘を出してそれを屋根にすると、あたしはやっとコカ・コー
ラのボトルキャップを開封して口を付けた。
プシュッという炭酸が弾けるように放出される音は夏を知らせる音だ。少しぬる
くなってしまったカラメル色の炭酸水がシュワシュワと弾けながらあたしの喉を
下りていく。
 あたしのお父さんやお母さん達の若い頃は、コカ・コーラが憧れのシンボルだ
ったらしい。アメリカの、自由の、格好良さの、シンボルだったらしい。
今じゃそんなことは考えられないけど、すごくポップな存在なのは変わらない。
あたしが小さい頃、稲村ジェーンという映画があったらしいけど、それは昔のこ
のあたりをモデルにした映画だったらしい。
稲村ジェーンというのは、大昔のジェーン台風で起きた大きな波のことで、そん
な大波の再来を待つ人達が出てくるのが、その稲村ジェーンという映画らしい。
あたしはまだ高校二年生だし、お父さんやお母さんが若かった頃やもっと前のこ
となんて、当然知らない。たぶん、コカ・コーラが今よりずっと価値を持ってい
た時代のことなんだろう。
 あたしはよく稲村ヶ崎海岸に来るけど、稲村ジェーンと呼ばれるすごい波は見
たことがない。だいいち、そんな波がくるような台風の日に電車は走らないし、
高波の日に海岸に近づいたら巡回している大人に注意されるに決まっている。
サーファーだったら見逃してもらえるかもしれないけど、学生服を着た女の子が
そんな場所にいたら、自殺をするのかもしれないと疑われてしまうと思う。
 コカ・コーラを飲みながら食べるタマゴサンドイッチは美味しい。棘のあるコ
カ・コーラの甘みと塩気のあるタマゴペーストの甘みは意外に合うと思う。
鳥達がやってこないうちにあたしはコカ・コーラで流し込むように少しパサつく
タマゴサンドイッチを食べると、次にヨーグルトを取り出した。ヨーグルトはカ
ップの表面が水滴だらけで砂が付いてしまった。
砂をぬぐってアルミの蓋を剥がすと、まずヨーグルトの表面に溜まった透明の液
体だけ啜ってから、プラスチックのスプーンをビニールの包装を破って取り出し
て食べ始める。ヨーグルトの表面に溜まる透明な液体はとても栄養があって重要
なものらしい。ヨーグルトのマイルドな酸味があたしの気分を和ませてくれる。
 そうやって買ってきたものをあらかた食べてしまうと、日傘をたたみ食べ終え
たものを再びビニール袋に詰めた。これは後でゴミ箱に捨てるつもりだ。
小学校の頃、海岸のある街に住む人は、たとえ外からきた人が海を汚してもその
ゴミを拾って綺麗にする心がけが必要だ、と習ったけどあたしはそこまではでき
ない。でも、せめて自分のゴミぐらいは自分で処理したい。
空はとても青くて、海の表面からモコモコと白い入道雲が湧いて出ているみたい
だ。入道雲は、食べると美味しそうなものに見える。
こうやって意味もなくのんびりと海を見て過ごすのは幸せなことだ。きっと南の
国の人や沖縄の人達は、綺麗な海を眺めながら穏やかに毎日を過ごしているか
ら、健康的で幸せに暮らせるんだろう、とあたしは思う。
 あたしが海を好きな理由は何だろう。それは、映画にもドラマにも、サザンの
詩にもならないぐらい陳腐だけど、あたしの恋愛がいつも夏と海に関係している
からかもしれない。初恋も、初セックスも、この前別れた人とも、あたしと相手
の中間には決まって海があったと思う。
初めてのセックスは中学三年の時で、夏休み仲のいい友達同士で泳ぎに出かけ、
何故だか夜まで砂浜の上で過ごしてしまって。ずっと好きだった男の子と、成り
行きでセックスをした。それも砂浜で。そのときの想い出は、なんだかセックス
っていうのは痛いし、口がジャリジャリするなあ、という全くロマンティックと
はかけ離れたものだった。
 高校に進学した年の夏は、まあありがちなんだけどセックスの楽しさに目覚め
てしまった夏で、意味もなく毎日のようにセックスばかりしていた。
昼はサーファーのナンパ待ちをして、海岸のシャワーボックスやトイレでゴム無
しセックスをしてお金をもらい、立ったままのセックスとかを覚えた引き替えに
貯まったお金で、ブランドもののバッグとかアルバの服とか買って喜んでいた。
夜も海岸でナンパ待ち。昼のセックスで貯めたお金で買ったハイビスカスのプリ
ントの服とか着て、車を持っている人達からのナンパ待ち。
女子高校生の釣り餌ほど効果のあるものはないんじゃないかとか思うほど男が群
がってきて、あたしはバカみたいにナンパしてくる男の車に乗り込んでカーセッ
クスとかしてた。それが去年の夏だなんて信じられない。
 去年の夏に生きていたあたしは、誰とでもセックスをする本当に都合のいい女
で、ヤリマン女と呼ばれても全然気にならないような、ダメな奴だった。
でも、ちょうどその頃知り合った波崎奈津子という子との関係が、あたしを少し
だけ変えた気がする。奈津子とは本当に突発的に知り合ったんだけど、毎日一緒
に遊ぶぐらい仲も良くなって、たぶん親友じゃないかと思っていた。
 ちょうど、冬の入りぐらいに海を見に一緒に出かけたんだけど、冬の海なんて
空は鉛色だし海面だって薄暗い色をしていて寒いだけ。
それでも奈津子はあたしを海に誘うと、頬を指すような冷たい風が吹く海岸の、
それも小雨まじりの最悪な空の下で突然あたしの唇にキスをすると、友達として
今後やっていけなくてもいいから、瑠美とこうしたかった、と言って雨に打たれ
びしょ濡れになりながらあたしにディープキスをし続けた。
あたしは、自分が同性とこんなことをするとは思ってもいなかったし、セックス
だってその年の夏だけで50人以上と経験しているんだからこれぐらいのことで戸
惑うことなんてないと思っていたのに、体が硬直して声すら出なくて寒さのせい
なのかよく分からないうちに体が震えだして、あたしは泣きながら奈津子のキス
を受け入れていた。
奈津子はあたしを抱きしめたり撫でたりしながら、ごめんねごめんね、と繰り返
して本当に優しく接してくれた。あたしは自分がレズになってしまうのが怖くて
怯えていたくせに、どうしてか奈津子の優しさが嬉しくなってきてしまって、奈
津子には男みたいにセックスをする道具が付いていないのに、抱かれたら幸せだ
ろうと思うようになっていった。
 そうやってあたしと奈津子の関係が新たに始まって今年の春まで続いたけど、
奈津子は突然フィラデルフィアに引っ越していってしまった。
奈津子があたしに強引な告白をしたのは、春には日本を離れてしまうからだった
のかもしれない。
その後も普通にセックスもしたけど、やっぱり女同士のほうがセックスに愛を感
じるようになった。それは、別にあたしがレズの女になってしまった、というこ
とじゃなくてたぶんバイセクシャルとして、あたしの体がより快感を得られるイ
ンターフェイスに対応しただけなんだと思う。
 そうやって感傷に浸りながら、白い波や飛び廻る鳶の姿を追っていると背後、
ずっと後方から激しいバイクのエンジン音が突然に聞こえ、もの凄い音を立てな
がらあたしの座っている場所からそう遠くはないところで停まった。
バイクが停まったと思われる方向を振り返ると、すぐに黒っぽい大きなバイクが
目に入りそのバイクから今まさに降り立ったと思われる、黒いTシャツとレザー
のロングパンツという黒尽くめの格好で、かなり背の高いライダーの後ろ姿がな
んだか重々しい空気を感じさせた。
 背の高いライダーは黒いフルフェイスのヘルメットを脱ぐとバサリと黒く長い
髪が背中に沿って垂直に落ち、手に持ったヘルメットをバイクのハンドルに掛け
ると、首を左右にコキコキとストレッチするような仕草をとってからあたしがい
る方に振り向いた。
黒尽くめのファッションといい厳つい雰囲気から、なにも疑わずにその人を男だ
と思っていたけど、こちらを向いたその顔は色白であたしと同じ女の顔だった。
こんなに体の大きな女の人がいるのか、と見つめているとその人は風に流されて
しまう長い髪を何度もかき上げながら、あたしのほうに向かって近づいてきた。
 腕には金属と革を組み合わせたようなリストバンドをしているし、半袖から伸
びた白い腕に浮かび上がるように彫られた青い龍の刺青から、なんだか怖い人じ
ゃないだろうか、と心臓をブルブルと震わせているとその人はどんどんあたしに
近づいてきて、その人にとってあたしが目標物であることは確かだった。
あたしは、ズンズン近づいてくるその人がどことなく怖い気がして、目を背けて
しまおうと何度も思ったけどどうしてかその人に釘付けになるように、目を背け
ることが出来なかった。
あたしとその人の距離はどんどん縮まり、その人はあたしのすぐそばまで近づく
と、ねえ、なにしてるの? と力の抜けたようなおかしな喋り方で声をかけてき
たのでなんだか拍子抜けしてしまった感じがして、でも少し安心することが出来
て、いま、海を見ながら食事をしてたんですよ、と答えるとその人は、フーンと
いう感嘆ともつかない声を漏らし、ピクニック? と聞いてくるのでおかしなこ
とを聞く人だと思いながら、違いますよ。ただ、ここの海が好きだからよく来る
んですよ、と言うとその人は、今年で閉鎖されちゃうんだよね、と言うのであた
しは近くに住んでいながら閉鎖されることを知らなかったから、マジで? と聞
き返すとその人は首を傾げて、噂なのかなあ? でもテレビの人が言ってたんだ
よ、と言って海のほうを指さして、閉鎖されちゃうっていうから見に来たんだ
よ、と言うとあたしの脇に腰をおろしてあたしが食べ終えたものを詰めた白いビ
ニール袋の中を覗きながら、お弁当買ってくればよかったかなあ、と言ってニコ
ニコしながら海を眺めていた。
どこか少しおかしな気もするけどあたしの脇に座っている人は、外国のモデルの
ような体をしていて驚くほど足も長かった。
 あたしは隣に座った人の横顔や髪の毛、色々な部分を観察するように眺めなが
ら、もしかしてモデルさんとかなんですか? と声をかけるとその人は、あたし
に顔を向けて軟らかい表情で笑うと、今は違うよ、と言ってあたしの組んだ膝を
撫でながら、学校に行かないの? と聞いてくるので、たまに行きたくなくなる
っていうか、ここに来たくなったりする、と答えると、フーン。学校は楽しくな
いのかなあ? 学校でお弁当を食べると楽しいよ、と言って笑っている。
その人は優しい顔をしているのにどこか異質な感じがして、おかしな喋り方をし
ているけどそれがわざとなんじゃないか、という気がした。
あたしはその人に、あたしは瑠美っていうんだけどお姉さんの名前とか聞いてい
いですか? と尋ねるとその人は、シャロンだよ、と言って海風で横顔に張り付
いてしまう長い髪を鬱陶しそうにかき上げた。
 シャロンなんて名前、本名なんだろうか? でも、外国人のハーフかも知れな
い、そんなことを思いながら、シャロンさんって、もしかしてハーフの人? と
あたしが問いかけると、どこかつまらなそうな表情で海を眺め、シャロンでいい
よ、と呟いて、何でそんなこと知りたいの? と冷めた口調で答えた。
あたしは怒らせてしまったのかと思って謝ると、なんで謝るのかなあ。わからな
いよ、と首を傾げて、質問されるのは嫌いです、と言ってあたしの頭を可愛がる
ように撫で回すのでなにがなんだかわからなくなってきてしまった。
何故頭を撫でられているんだろうと思いながらされるがままに流されているとシ
ャロンが、小さいね、と笑うので、それはシャロンの背が高いだけで、あたしの
身長は普通だよ、と答えると、違うよ。顔が小さい、と言ってニコニコとあたし
の顔を眺めて笑っている。
 シャロンは本当に変わっていると思う。実際何処かが少しおかしいのかも知れ
ないけど、とても綺麗で体の造りも別世界の人だ、こんな人を実際に見たのは初
めてだからなんだかすごくドキドキしてしまって、あたしみたいな普通のどこに
でもいるような子なんて犬や猫と同じように見えてるんじゃないか、なんて思い
ながらチラチラと横目でシャロンの体や横顔を見ていると、シャロンはおもむろ
にあたしの背中に腕を廻してギュッと自分に抱き寄せるようにすると、さっきか
らずっと見てる。観察してるのかなあ? と言ってあたしの頬に自分の頬をピッ
タリとくっつけてきたので驚いてしまった。シャロンの頬は冷たくて、変に温か
いあたしの頬とは正反対だった。
シャロンはあたしの反応を愉しむためにやっているかのように、よく見えるかな
あ? と囁いて息を吹きかけてきた。その息は微かにチョコレートのような匂い
がして、あたしの背筋に電気を走らせるには充分すぎる感じ。
 間近で見るシャロンの首筋はとても白くて今が夏じゃないようなそんな感じが
する。とてもしっかりした体なのに胸板が薄くて、バストはあたしのほうがずっ
と大きい、とかバカみたいに喜んでいるとシャロンはあたしの首筋や髪の匂いを
嗅ぎながら、コロンとヘアコロンの組み合わせが下手、と言ってあたしの耳の縁
に噛みつくようにして前歯を立てたのであたしは思わず、アッ、と声を漏らして
しまうと、独りでエッチな声出してる、と笑ってあたしの背中に廻した腕に力が
入りその手があたしの左頬に触れ一気にあたしの顔がシャロンの顔に引き寄せら
れる、シャロンは瞬きもしないであたしの目を見つめながら長く伸ばした舌であ
たしの鼻の先をペロンと舐めると、なんかさっきからずっと落ち着かないね、目
がキョロキョロお散歩してるよ、心臓もドックンドックンって背中に響いてるし
おかしいね、とギリギリのところまで顔を近づけ、エッチなこと考えてるとそう
なっちゃうんだよ、と言って長い舌をあたしの唇の隙間目指して滑り込ませてき
た。こんな唐突で不思議なキスなんて初めてだ、普通の人だったらこんなことし
ないよ。
 突然のキスだったけど、あまりに慣れすぎたその舌使いに引き込まれるように
してキスに応じてしまい、もっと複雑で深いキスを求めようとした瞬間、今まで
あたしの口腔内を生き物のように這い回っていた舌があっさりと滑り抜けていっ
てしまい、なにかあり得ないことが起こったかのような不思議な感覚に陥った。
シャロンは呆気にとられたような顔をしているあたしを笑い、本気で舌を絡めて
きたから止めたよ、なにかに飢えているようなキスだったらしない方が瑠美のた
めな気がするよ、と言ってあたしの頭を撫でながら、ブラウスに透けたブラって
エッチだね、と呟きながら、背中越しにその人を見るとその人がどうやって生き
てきたかがわかるんだよ、と言って立ち上がりあたしの背後にピッタリとくっつ
いて立つと、ここは「瑠美の場所」なんだね、瑠美の記憶が留まった場所、私の
場所じゃないよ、瑠美は一番好きな人とここで過ごしたからこの場所に何度も帰
ってくる、と言うので、そんな感傷に浸ってるつもりなんて無いよ、と答えると
シャロンは、そうかなあ、なにもなければあんなにキスを求めたりしないよ、キ
スをしていると一瞬相手の記憶が流れ込んでくるんだよね、と分かり切った既成
事実かのようにあたしの上からそんな言葉が降り注がれる。
 あたしがなにかに囚われているような言われ方をするのは気分が良くない。例
えそうだとしても、初めて会った面識のない人に何もかもわかったようなことを
言われることを笑顔で受け止められる人はいないと思う。
シャロンはそんなあたしに、過ぎたことを追い求める気分は波を眺めるのに似て
るんだよ、たぶん瑠美はこの場所を卒業する時が来てると思うよ、とあたしの心
をほころびだらけにしてしまうかのようなことを言い続けるので、なんで、さっ
き会ったばっかりのシャロンにそんなこと言われなきゃいけないんだよ? と言
うとシャロンはあたしの反応なんて気にならないかのように、瑠美はいつもここ
じゃない何処かを探しているはずなのに、と続けるので、わかったようなこと言
わないでよ、なんかそういうのすごく嫌だし、と言うとシャロンは、瑠美が何度
ここに戻ってきても、瑠美が戻ることは出来ないんだよ、と言ってあたしのそば
から離れていってしまった。
 何がなんだかわからない、というのはこういうことなんだ、と理解した気がす
る。でも、大体はわかっていることだった。
シャロンという誰だかわからない人に、なにかを言われなくても私自身のことに
ついては、よくわかっていることだった。
あたしにあれほどまとわりついてきたシャロンという人は、あたしに言いたいこ
とを言いたいだけ言うと、もう飽きてしまったかのようにあたしから離れクルク
ルと回りながら砂浜を歩いている。
何処かおかしな人に散々振り回されてしまった、と思えばそれなりに済むことか
も知れないけど、このまま何もかもなかったことにしてしまうのも後味が悪い気
がする。
 あたしはここの海が好きだ、ここからの景色を眺めるのが好きだ。
あたしが稲村ヶ崎海岸を好きな理由は、ただ静かだから。それだけ。本当にそれ
だけだったからなのかな? 改めて考えるとよくわからない。
わざわざ学校をサボってまで、時間をかけてここに来る理由が、よくわからなく
なってきた。
今までは好きだから、ということにしていたけど、それだけじゃない気がするし
それだけにしておきたいという気もするし、シャロンという人のことも、あたし
が稲村ヶ崎海岸に来る理由も、よくわからない。
稲村ジェーンという映画がよくわからない映画だったように、あたしがここに来
てしまう理由もよくわからないことにしておけばいいことだ。
 なんだか、打ち寄せる波を見ていることがひどくむなしいように思えてきてし
まった。足下に転がったビニール袋のゴミや潰れてしまったコカ・コーラのボト
ル缶、毎年味わっている気がする夏休みが終わる夜のあっけなさ、夏が終わる侘
びしさ、すべてをひっくるめたようなそんなむなしさだ。
この先、生きていく上で波崎奈津子との想い出なんて、そんな感じでむなしく消
えていってしまうんだろうか。

 あたしの視線の先で、シャロンが手を振っている姿が見えた。

Fin.