メランコリア


 カンガンカンガンカン…金属がぶつかり合う工事の音に起こされあたしは目を覚ました。
ここ半月は昼近くに鳴り響くこの音に、毎日のように睡眠を妨げられている。工事現場はあたしの
住むマンションのすぐ裏側にある、高層マンションの建設予定地だ。
金属音の影響でよけいに痛みの増幅したガンガンとする頭を抱え、フラフラとよろけながらトイレ
に駆け込む。そしてショーツを下ろし息を止めながら、血をたっぷり含んだナプキンを引き剥がし
コーナーポットに落とすと、そのまま便座に腰を落とし頭を膝の間に挟むようにして抱え込むと、
唇を噛みしめながら強く目を閉じた。でも、頭も背中も腰も、体の芯も痛みが治まらない。
 あたしがどうしようもない痛みと不安と孤独に震えているのに、激しい金属音はよけいに音を増
しあたしに襲いかかってくる。
頭蓋骨の内側に響き渡る金属音はあたしの不安を膨らませ、誰かに助けを無性に求めたい気分
にさせる。助けてよ。あたしは叫びだしそうになるのを抑えながら、すぐ脇にある洗面台に手を伸
ばし貝印の剃刀を手に取ると、錆のない優しい刃を腕に何度か当ててゆっくりと引いた。浅く、静
かに。
 本当に切れ味の良い刃は、切った痛みを感じさせない。
僅かな痛みを教えてくれるのは血が流れ始め、赤い筋を作り始める頃。血を認識したときにはじ
めて本当に僅かな痛みを感じ始める。
あたしの血は下半身から失われていく、それでもあたしの血は作られる。でも、あたしが腕から流
した血は、永遠に失われる。
貧血が催させる、身体が冷えていく感覚や意識が曖昧になる感覚とは異なる、喪失感と死が誘う
凍たさが、かろうじてあたしが生きていることを教えてくれる。
血が止まり、血小板により傷口が固まっていく。その瞬間、ほんの少しの寂しさと一緒に、あたし
の肉体から失われかけていたあたしの「自身」を繋ぎとめることができる。
 助けて。あたしはそう呟き傷口に口をつけて、空気に触れ一瞬にして酸化していった血液を舐
めると、便座の洗浄機能であたしの下半身を洗い流し、ナプキンを交換するとトイレを後にする。
トイレを這い出したあたしが向かうのは冷蔵庫。冷蔵庫から取り出した、電気分解済みのボトル水
をグラスに注ぎ、発泡性の鎮痛剤を透き通った水に落とした。
発泡性の鎮痛剤はまばゆいぐらいの細かな泡をあげて水に散っていく。残されるのはレモンフレ
ーバーの炭酸水だ。その水があたしの苦痛をほんの少しだけ鎮めてくれる。ただ、これは単なる
気休めでしかない。あたしの苦痛はあたし自身が持つ内部の苦痛だからだ。炭酸があたしの喉
や食道を刺激して、げっぷの感覚と胃液の感覚を呼び起こす。
 古いクーラーがカタカタと音をたて、壊れかけの扇風機がキイッキイッと軋みをあげている。
あたしは床に転がった白い紙袋から錠剤をそれぞれ2錠と3錠取り出し口に含むと、そのまま噛
み砕くようにして飲み込んだ。薬の苦みがあたしにシャープさを教えてくれる。
あたしはしばらく親指のつけ根を噛んだまま目を閉じると、不定形な不愉快が薄らぐのをただひ
たすら待ち続ける。

 あたしが再び瞼を開くともう既に数時間が経っていた。薬のせいなのかこんな状態のせいなの
か、時間の感覚がうまく掴めないような気がする。空腹は感じない、というよりも突然ひどい空腹感
が襲ってくるから、それまでは何も欲しいとは思わなくなる。何故だろう。
そして、今がちょうどそのひどい空腹感を覚えているときだ。胃がへこんでいくような感覚が、あた
しの瞼を押し上げさせた。
 壁にもたれるように座っている状態から、一度ゴロリと横に転がり、床に手をつき全身の力を手
のひらに集中させ立ち上がると、壁に手をつきながら冷蔵庫を目指した。
冷蔵庫を開くと冷気があたしにまとわりついてくる。あたしは冷気を纏った腕を冷蔵庫の奥に伸ばし、
ハムやチーズといったものを掴むと、それを押し込むようにして口に入れた。
味は関係ない、空腹が満たされればそれでいい。傷ついた桃もあった。あたしは桃に指をつき立
て皮を無理矢理剥ぐと、それを潰すようにして掴んだまま口に押しあてた。
熟した桃をこうやって食べるとき、はじめて同性を力任せに抱いたことを想い出す。舌を突き立て
たキスのようだ、下半身へのキスのようだ、愛液が溢れる感覚。
 ベタベタだ。手の甲で汚れた口の周りを拭くと、床に落ちていたバスタオルを掴みバスルーム
へ。バスルームはトイレと同居している。
あたしは着ているものを総て洗濯機に放り込むと、あらかじめ剥がしておいたナプキンをコーナー
ポットに落とした。血が溢れていく感覚はない。血が尽きたたんだ。あたしの友人が、生理の終わ
りを血が尽きる、と表現した。いい表現だと思う。
熱いシャワーを勢い良く出すと、あたしは熱い飛沫を全身に浴び、残念ながらまだ生きてるんだ
よね、と反響するベージュ色の壁に呟いた。
水飛沫はあたしの表面を弾けていく。シャワーのノズルを性器に当てると、血生臭い動物の穴を
洗い流していく。身体、顔、髪、総てを洗った後は冷水でクールダウンしていく。
 歯磨きを終えバスタオルにくるまりバスルームを出ると、気怠く永い時間が始まる。髪を乾かし
整える数十分は、どうしようもなく鬱だ。あたしの長い髪は水分を含み、重く鉛のようだ。
ドライヤーの熱風が髪の隙間を流れていくたびに、ほんの少しずつ軽さを取り戻していく。
ある程度水気が飛んでしまえば、あとは自然に乾くのを待てばいい。クーラーの除湿能力は、想
像以上に強い。
 鏡を覗き込み2種類のローション、1種類のスキンケアのジェルを肌に塗り込み、肌に良いと言
われて買った下地剤を兼ねる化粧水を肌に吸わせる。あたしの肌は化粧品という化学薬品を吸
わせるためにあるスポンジだ。
金色の薔薇のエンブレムのついた黒いコンパクトを開き、ファンデーションを顔中にはたくと目元
の大工事に取りかかる。眉を描く、シンメトリーの創造。目の描き込み、生命を吹き込む。
幾重にもアイシャドウを重ね、アイラインを細く太く描き込むと、左の目にだけ長い付け睫毛を上
下につけ、ほんの少しマスカラをのせた。
 大きく見開いたように見える左目、光を嫌うような右目。右目には下ろしたての白い眼帯をつけ
た。そしてリップライン引き、酸化した血のような赤黒い口紅を塗った。
メイクを終えると、とりあえず黒のショーツだけ履いて、ディオールの黒のゴシックレーサーバック
のタンクと長袖のストレッチチュールTシャツを重ね着すると、ストッキングなどは履かずにセット
で買ったディオールの黒いレースアップパンツを履いて準備完了。
後は、荷物が詰め込まれたプラダのバッグを手に持って、ディオールのミュールを引っかけて部
屋を出るだけ。
 あたしは最後に財布と携帯とピルケースを持ったことを確認すると、重く膨らんだバッグを手に
提げ部屋を出た。バッグだけがディオールで揃えられなかったことが少し悔しい。
ただ、大きなバッグは無駄を省いた機能性が求められるから、そういうときはプラダやヴィトンがや
っぱり適していると思う。だから、主張のない黒い袋、といった感じのプラダのバッグが一番それ
に適していたように思う。

 必要以上に早く家を出てしまったもののこれといった行き先もなく、あたしは重いバッグを提げ
たまま仕方なく繁華街の片隅にあるレーベンスタインという喫茶店で時間を潰していた。
夕食を取るにはまだ早すぎるし、かといってゲームセンターで時間を潰すような気にもなれなかっ
たから喫茶店でひたすらいろんな種類の珈琲をとり続けていた。カフェインは摂れるだけ摂りた
い、あたしは誰からも評価されないポリシーを持っている。
 あたしの入った喫茶店は珈琲の種類だけは豊富で、かといってシアトル系のスタンドカフェみ
たいな感じでもなくてちゃんと革張りのソファに座って長時間居座るためにあるタイプの喫茶店だ
ったんだけど、どの種類の珈琲もひどくまずくて、おかしな程苦みが強く、たぶん珈琲の淹れ方
に問題があるんだと思う。だいたいこの手の味になってしまうのは鍵のエンブレムの珈琲だ。どう
せ大量生産の珈琲豆を使うならアートコーヒーやユーシーシーの珈琲の方が好きだ。
 店の窓ガラス越しに見えるカラオケボックス・ランゲルハンス島という店の前に置かれた小さな
ベンチには、いつの間にか2人組の女子高生が腰を降ろしそれぞれおにぎりややきそば弁当を
食べていた。たぶん友達と待ち合わせをしているんだろう。
カラオケボックスの看板には、海賊船のような絵と南の島の絵が描かれていて、新曲の宝島ラン
ゲルハンス島で歌っていこう、各社通信カラオケが揃っているよ、とキャッチが書かれていた。
女子高生はおにぎりと携帯電話を交互の手に持ちどちらにも真剣な眼差しを向けていた。たぶん
そのうちおにぎりを耳に当て携帯電話に囓りつくんじゃないかと思う。
実際にそうなれば面白いのであたしはしばらく眺めていたけど、しばらくすると金髪でソフトモヒカ
ンの頭の悪そうな男子高生がやってきて2人組の女子高生に声をかけ、そしてそのまま3人はラ
ンゲルハンス島に旅立っていってしまったので、仕方なく新しい面白そうなものを探し始めた。
 あたしがたいして客の入っていない店内を見回していると片隅の席に新聞を手にしたお爺さん
が座っていて、新聞を読みながら珈琲を飲もうとしているものだから新聞の陰になった場所にある
珈琲カップを手に取ることが出来ず、灰皿やシュガーポットやミルクポットを手当たり次第に掴ん
では違うことに気付き手を放す繰り返しがおこなわれているのが目に入り、いつかあのお爺さん
が熱い珈琲カップに指を突っ込んで驚くんじゃないかと思うと、早くその光景が見たくてソワソワし
てきてしまった。こんなつまらないことに興奮するのは、クスリの影響であることは確実だ。
 そうやってあたしが店内をキョロキョロしていると勘違いしたウェイトレスが、ご注文ですか? 
とやって来たので、違います、と答えるとウェイトレスはおかしな顔をして戻っていった。
そのウェイトレスは短い白い靴下を三つ折りにして履いていたのがちょうど見えて、今どきそんな
格好をしている人間がいるのを知ってまた可笑しくなってきてしまった。
そのウェイトレスは、あたしが何度も珈琲の注文を言いつけたり水のお代わりが欲しくて呼びつけ
ていたので今回もそう思ってきたんだろうけど、違う。
あたしが店内を見回している以上にそのウェイトレスはあたしの様子をチラチラ伺っていて、たま
にぼんやりあたしを見ている表情は知恵足らずのようだ。
 あたしはそんな感じで、暇で不味い喫茶店で時間を潰しているといつの間にか窓越しの世界
は暗くなり、キラキラと電飾が輝くようになっていた。
あたしは22時からのフェティッシュなクラブイベントに参加するために家を出てきたけど、時間を
潰しはしたものの余分な時間はあと3時間ほどあり、夕食をとったりすることを考えてもまだずいぶ
ん時間が残る。いつもだったらもう1時間ぐらい遅い時間にこの繁華街にあるイズラフェルという洋
食の店でハヤシライスを食べているんだけど、今日は仕方がないから少し早めに食事をとってし
まうことにした。
 そう決まれば行動は早い。あたしは即決主義な部分もあるから、こういうときすぐに行動に移し
てしまう。あたしは追記されまくった伝票を手にレジに向かうと、知恵足らずのような顔のウェイトレ
スではなく眼鏡をかけた詐欺師のような顔の店長らしき年輩の男が会計を担当した。
その男は訛があるのか、しぇんろっぴゃくぃんになります、と言ったので何だか見た目以上に胡散
臭さが漂ってきて、あたしはまた可笑しくなってきてしまいながら2千円を渡すと、はいはい、にし
ぇんぃんからですね、おつりはよんしゃくぃんになります、と言って百円玉を渡してきた。
あたしはその小銭をしまうと店をあとにした。背中越しに、またお越し下さい、と普通の挨拶が聞こ
えてきた。
あたしはその声を聞きながら、あのおじさんはあんな歳まで東京に住んでいるのに訛りが抜けな
いのは、きっと東北のひどい田舎から出てきたんだろうか、と思うと苦労してきたんだろうけどあん
なにお客の入らない不味い喫茶店の店長が最後の仕事になるかも知れないのは、とても可哀想
だ、と思えた。
 でもあたしは空腹を感じ始めていたこともあり、そんなおじさんのことはもうどうでも良くなってい
て足はイズラフェルに向かって速く小刻みに動いていた。
イズラフェルの隣には居酒屋食堂のようなフビライ飯店というのがあって、その店の前には通りか
らよく見えるような位置に、安くて旨いおすすめのエビフライ飯、というのぼりが立っていてあたし
はその前を通るたびに鬱な気分になってしまう。
それでも、イズラフェルのハヤシライスはとても味が良く美味しいので、食べたあとはほんの少し
だけ生きる気力が湧いてくる。
 出来るだけ下を向かないように、地面を見ないようにして歩いているとちょうどそののぼりが見
えてきて、その前を息を止めるように素早く通り過ぎると赤煉瓦造りの洋食屋が姿を現した。
あたしは飛び込むようにその店の扉をくぐるとカウンターのみの造りの店にはちょうどいい感じに
お客はいなくて、あたしが店に入ると厨房から髭モジャで手の甲にまでモジャモジャの毛が生え
た、まるでモコモコの毛皮を被ったような大柄なコックが姿を現し、イラッサイ、と声をかけてきた。
 見た目こそ熊かゴリラのような姿だけど、どこかの有名なホテルの総料理長を辞めて独立したと
いうイズラフェルのオーナーシェフはとても料理の腕が良い。個人店らしく値段も安いし、銀座の
高級店以上に美味しいものが安く食べられるんだからとても幸せな気分になれる店だと思う。
あたしはバッグを床に置き赤い円形の回転椅子に飛び乗ると、ハヤシライスね、と一言告げるだ
けであとは数分後には牛肉がたくさん入ったハヤシライスが目の前にやってくる。
熊のようなコックがノシノシと厨房に戻っていく後ろ姿は、無性に胸を掻き立てられるような、新鮮
さを喪ってはいない幼い感覚が甦る。

 イズラフェルで夕食をとると、夜の分の薬を飲みしばらく携帯電話をいじりながら過ごし店を後
にした。予定の時間までにはまだ余裕があるけどイベントが開かれるアスタータというクラブまで
それなりに距離はあるのでゆっくり歩いていけば時間潰しになるだろう。
クラブ・アスタータはメインの通りから2つ路地を入った奥まった場所にあって少しわかりづらい、
初めて来る人は地図を見ながら来ても迷ってしまうかも知れない複雑な場所だ。
カレーショップ・ケレルの角を曲がりアイアンメイデンというサンドイッチ屋の角をもう一度曲がった
路地にあるその場所まで距離にすれば570メートルぐらいあると思う。
あたしは人の流れが激しい繁華街の道をゆっくり歩き、クラブ・アスタータを目指した。
 アスタータの前まで行くと会場待ちをしていている人影が見え、煙草の赤い火がひとり一個ず
つの割合で灯っていて人数を数えるのが容易だ。まあ、数を数えていると不安がこみ上げてくる
からそんなことをするつもりはないけど。
あたしは携帯電話の時計に目を遣りながらオープンになるまでの時間を待っていると、様々なコ
スチュームを着込んだ人やデザイン志望っぽい感じの子達が少しずつ集まってきた。
アスタータの中は一般には荷物を預けておくロッカールームだけでドレッシングスペースはない
から近場のホテルや店のトイレとか自宅からコスチュームを着込んでくる羽目になるわけだけど、
あたしはイベントのスタッフと仲がいいこともあってスタッフルームで着替えをさせてもらっている。
スタッフに声をかければ早い段階で中に入ってしまうことも可能だけど、何かを手伝わされるのも
嫌だしあんまり他人と喋りたくないっていうこともあって一般と同じ時間に入ることにしている。
 オープンの時間が近づき徐々に人影が列を成していく。そしてクラブ・アスタータの扉が開い
てその列は徐々に建物の中に吸い込まれていく。
建物の中の入り口付近でお金を払いあたしは列を外れてスタッフルームへと足を向けた。
スタッフルームの入口にはスタッフオンリーというステッカーが貼られていているけどあたしには関
係ない。金属の防音扉を入ると機材や段ボール箱が置かれていて、煙草をくわえたスタッフや化
粧中の女の子などに出くわし挨拶を交わした後、いわゆる楽屋部屋となっている部屋に入るとイ
ベントのオーガナイザーを務めるニルヴァーナ女王があたしに気付き、なんや、その目どうした
ん? と言うので、あー別に意味ないけど、と眼帯を捲って見せると、メパチコでも出来たんかと
思った、と言うので、メパチコ? と首を傾げるとすぐ側で背を向け煙草を吸っていた女の人が、
ものもらいのこと、と呟くとニルヴァーナは、ああ、そうそう、と言ってそして、そこに座ってる態度の
悪いヤツはCollaboVanilla&Coっていうバンドやってるナオキね、と教えてくれた。
紹介を受けたナオキという人はパイプ椅子から体を起こして振り返ると、一瞬あたしを睨むように
して見た後すぐに愛想良い表情で、どうもナオキです、と声をかけてきた。その笑った顔が猫みた
いで可愛い笑顔の人だ。あたしは、マーカスです、と挨拶をするとその人は、よろしくね、と言って
アハハと笑った。
 あたしはナオキという人のバンドは知らないけど、でも、どこかで見たことのある顔だったような
気がした。しばらく顔を眺めながら考えたけど、どこで見たのかとかそういったことは思い出すこと
は出来なかった。
ナオキはそんなあたしの顔を訝しげに見ると、あれ、どうかした? と聞いてくるので、前にどこか
で見たような気がしたんで…、と答えるとナオキは、そうなんだ? ライブハウスかどこかで見かけ
たのかも知れないね、と笑っていたけどたぶん別の場所だったような気がする。
 ニルヴァーナが、ナオキそろそろ時間やで、行こか? マーカスはそこでゆっくり着替えや、と
言って楽屋を出て行った。ナオキは、今日はさ、1曲歌うから是非聴いてって欲しいね、と言って
部屋を出て行った。そして、楽屋の外でニルヴァーナ達が廊下にいたスタッフ達に声をかけるの
が聞こえた。
 あたしは楽屋の扉を閉じると床に置いたバッグから黒いラバー製のコスチュームを取り出し、床
の砂埃が付かないようにパイプ椅子に置き、服を脱ぎ始めた。
服を総て脱いでしまうと、バッグに詰め込んであった制汗のパウダースプレーを全身にたくさん吹
きつけた。ラバーの滑りを良くするためにタルカムパウダーをはたくけど、その手間を短縮するた
めにあたしが考えた方法だ。
 パイプ椅子に座りラバーストッキングに脚を通すと、ビスチェ状になっているラバーウェアを着
込みバッグから取り出したエナメルのブーツを履いた。編み上げの紐を締め上げると少しだけ気
持ちも引き締まる。ステップを踏むように次はエナメルコルセットのベルトを締める。
そうして今度は鏡に向き合って、眼帯を外すとバッグから取り出したラバーフードを被る。あたし
お気に入りの、マスク頭頂部の左右に髪を引き出す穴が付いたもので、そこから髪の束を引き出
して2本のポニーテールが作れる。
後は眼帯を当てていた方の目を塞ぐようにラバーのアイパッチをフードの上から付け、ガスマスク
を被り、肩まであるラバーの手袋を着けるだけだ。
 あたしは着替えを終えて、もう一工夫と思って最近買ったばかりの黒く大きなディルドーが生え
たペニスバンドを腰に巻くと、ラバー製のバラ鞭をペニスバンドのベルトに引っかけて脱ぎ終えた
服をバッグに詰めファスナーを閉めると、その上にミュールを乗せてパイプ椅子に座らせた。
財布と携帯だけは忘れちゃマズイから、携帯をブーツの紐に括り財布はコルセットのベルトに挟
み準備は完了。あとは人の集まったホールへ出て行くだけだ。
あたしは石タイルの床に靴音を響かせながら楽屋を出ると、通路で何人かにすれ違いながらホー
ルへと足を踏み入れた。
 ホールには色とりどり様々なデザインのコスチュームに身を包んだお客達が詰め込まれたよう
に蠢いていた。コーナーにある小さなカウンター式のドリンクコーナーではアルコールの入ったペ
ーパーカップを貰う人や、近くにある筒状の灰皿を挟んで煙草を吸う人の姿が目につく。
中央に置かれた小さなステージは暗く、人影はない。DJブースにはDJの他にも人影が忙しそう
に動いている。ホールに響く曲は、一般的なクラブのようなどちらかというと元気な音、というよりも
当たり障りのない選曲だ。
ホールを見渡すと、最近はカラフルなラバーウェアを纏った人がずいぶん増えたけど、あたしは
黒い古典的なラバーが一番好きだ。一番シャープで無機質な質感が格好いいと思う。
 人を掻き分けるようにしてステージの近くへ歩いていこうとするとあたしに気付いた人が、マー
カスさんですか? とか声をかけてくる。あたし自身そういうのは苦手なんだけど、特に同性はあ
たしの腕を掴んだり積極的に声をかけてくる傾向にあるような気がする。
女の子にはある程度相手をしてあげてもいいと思うけど、馴れ馴れしい男には返事すらしたくな
い。馴れ馴れしい男ほど気持ちが悪いものはないし、そういった男の仕草や反応を見ていると憂
鬱な気分になってくる。あと、M男も好きにはなれない、なんか無意味に卑屈だし妙に馴れ馴れ
しくしてくる感じがするからか、側にいるだけで気分が悪くなってくる。そういうヤツは蹴ったり罵倒
したりしても、構って貰ってると勘違いする、どうしようもない勘違い野郎が多いからとにかく無視
だ。独占欲が強いのは男も女もマゾに多い傾向な気がする。意外にサディストはドライだ。
 ステージから近くも遠くもない壁際にあたしが立つと、その側に何脚か置いてあったパイプ椅
子から立ち上がった黒縁眼鏡に黒いナーススーツを着た女の子が、マーカスさん、どうぞ、と言っ
て席を譲ってくれた。ありがとう、と言ってその椅子に座ると側にいた何人かがあたしの噂話をし
ていた。本人が思っている以上に、あたしは有名人らしい。それは光栄な気もするけど甚だ迷惑
でもある。フードやスーツなどで素性がわからない女がたまたまマーカスと名乗っているだけなの
に、もしあたしじゃない別人が同じ格好をしたってわからないようなマーカスという存在をそこまで
知った気になられても困る、ということかも知れない。
 あたしが椅子に座ってステージを見上げていると、ステージにスポットが当たりニルヴァーナが
姿を現した。
ニルヴァーナはこのイベントのオーガナイザーであると同時に、かなり有名なクラブ女王らしい。
あたしは女ということもあってSMクラブで遊んだことはないけど、名前を出すと大抵の人が知って
いるんだから有名なんだと思う。雑誌やビデオへの露出も多いから実物を知らなくても間接的に
知っている人は多いんだろう。
ニルヴァーナはステージの上でマイクを片手に、なんかマッタリしてんじゃないの? 始まったば
っかでマッタリしてんじゃないよ! マンネリ気味とか思ってるんでしょ? ってことで今夜はゲス
トライブを連続でやってくから、最後まで盛り上がっていってね! というようなことをスペイン語
で喋ると、バックの黒いスクリーンのようなものに同時通訳のように字幕が投影される。
まったく意味不明の演出にあたしは苦笑いしてると、一発目はカット・イリュージョン! と言って
ニルヴァーナがステージから姿を消し、白いカット用のケープを纏った3人のおかっぱ頭の女の
子が丸椅子を抱えてステージ上にやってきて、彼女達は順番に椅子を置きその上に横1列に座
っていく。すると鋏を持ったピンク色の髪の女が姿を現し音楽が鳴り響き、ピンク色の髪の女は鋏
を大仰に振り回しおかっぱ頭のてるてる坊主のような女の頭をカットし始めた。
 カット・イリュージョンとかいうから、紙切り芸でもやるのかと思ったら髪の毛を切るカットだった
わけで、なんかバカらしくなってみんな笑っているとピンク色の髪の女が両手にバリカンを持って
今度はてるてる坊主達の髪を刈り始めてしまった。
どんどん髪は飛び散り本当のてるてる坊主のようになっていく女達は、坊主頭になった順にケー
プを取り去り、そのケープの下は無意味に全裸で順々に坊主になり裸になり万歳をしながらステ
ージを降りていく。
 まったく意味不明な、シュールといえばシュールだし、馬鹿らしいといえば馬鹿らしいライブショ
ウだ。オーディエンスは呆れたり笑ったりしながらそのライブを楽しむと、続いてパッキー・アンド・
ムンムというピンクとオレンヂ色のそれぞれの全身タイツを纏ったスタイルの良い女の2人組が出
てきて、中国雑伎団のような軟体パフォーマンスをしながら様々な体位を組んでいくという、哲学
的な面白いライブが始まると、オーディエンスは新しい体位に組み変わるごとにそれぞれ体位の
名前を叫び合っていた。パッキー・アンド・ムンムは全身を包むタイツを着ているせいで顔すらわ
からなかったけど、お互いに胸がかなり大きかった。
 そんな大いに盛り上がるともいえないライブがその後も続いていくんだけど、あたしはライブ鑑
賞はそこまでにして今夜の目的であるあたしなりの遊びをするために、その相手となる華子を捜し
始めた。
華子とは最近このイベントで知り合ったばっかりでプライベートではまだ付き合いがないし、彼女
もフードを付けているのでお互いに素顔は知らない。とりあえずこのイベント内だけで遊んでいる
という関係だ。幸運にも華子もラバー好きで、彼女自身ヘヴィーなラバーコレクターであるというこ
とで趣味も合う。
あたしがホールの中を見回しているとドリンクコーナーでペーパーカップを貰っているラバースタ
イルな女が華子のような感じがしたので、意外と近くにいたのか、と思いながらそばに寄って声を
かけると、マーカスさぁん、今夜も会えて良かったですぅ、という返事が返ってきて華子であること
が確実となった。
 華子はオレンヂ色のラバー製のキャットスーツを身に着けていて、トータルコーディネイトしたと
思われる同じオレンヂ色の長靴のようなブーツと手袋をしていて、フードの色も同じだった。
そのオレンヂ色のコスチュームの上に重ね着するように赤いウェストニッパーのようなものを着け、
フードの頭頂には赤いバニーの耳のような飾りを付けていた。
前回は古典的な黒のキャットスーツにヘヴィーなボディーハーネスを着け、スパイキーなアクセサ
リーやDeMaskのフードなどで飾った男っぽい感じのスタイルだったけど今夜はどっちかというと
女らしい格好かも知れない。
 あたしは華子の引き締まった感じの太股を撫でると、やっぱマーカスさんは格好いいよなぁ、と
あたしの胸のあたりや腕をペタペタ触りながら華子が言った。
褒められるのはとても気分が良いことだ。男なんかよりも同性に褒められた方が気分が良いのは
何故だろう。
華子の手首を掴むとラバーの手袋で覆われたお互いの掌をくっつけ指と指を噛み合わせるよう
に絡めラバーとラバーが触れ合う感触を楽しんだ。
指を擦り合わせるとキュッキュという音が鳴って華子が、楽しぃー、と笑った。ラバースタイルに慣
れていても、こういった感触を楽しんだりじゃれ合うことはいつだってワクワクするし、楽しい気が
する。肌の質感や触感が変わることで世界は結構面白い方向に変わるものだ。
 華子の腰に腕をまわし、何飲んでるの? と聞くと、アセロラジュースですよ、と言うので、アル
コールとか飲まないの? と聞くと、お酒はダメなんですよ、と笑った。
あたしは薬を飲んでるからもちろんアルコールなんて摂取したらマズイけど、こういった場所で敢
えて果汁を飲むというのは変わっている気がする。ソフトドリンクでも烏龍茶などが妥当じゃない
のかな。
華子は少し変わったところがあるけど、仕草とかがとても可愛いし甘えてくるので一緒にいてもペ
ットみたいで可愛い。まあ実際にペットとして彼女を弄んでいるんだけど。
今夜はメールアドレスぐらい交換しようかな、と思いながらマスクの口部分から覗いている赤い唇
に指をねじ込むと、アウアウ、と言って彼女が指を甘噛みして、まじぃ。やっぱラバーは口に入れ
るもんじゃないですね、と笑った。
あたしもラバーの感触は好きだけど、ハッキリいってゴムの味は最低だと思う。匂いはマチマチだ
けど、どっちかといえば甘い感じの匂いなら耐えられるけど樹脂臭いようなのはダメだ。
 彼女の腰を軽く押すようにして、会ったばっかりだけど少し静かなところに行こうか? と声を
かけると、あ、飲んじゃってからでいい? と言うので、早めにね、とお尻を叩いた。
華子は律儀にも一気飲みするかのようにゴクゴクと果汁を飲み干すと、もう大丈夫です、と言って
あたしと手を繋ぐようにして指を絡めてきた。
そんなに急いで飲まなくたっていいのに、と言って彼女の腕を引っ張ると、早めにって言ったじゃ
ないですかぁ、と彼女は答えて歩き始めた。
あたしは手を繋いだまま彼女をトイレの方に連れて行くと、個室トイレは4つのうち1つだけが空い
ていて、先に入りなさい、と言って彼女を個室に入らせ蓋をしたままの便器に座らせてからあたし
も個室に入ると扉を閉じて鍵をかけた。
 あたしは扉に背をもたれ華子の靴の爪先を踏むようにして足をかけると、やっぱ個室の方が落
ち着くわね? 騒がしいところって落ち着かないんだよ、と言うと華子は、でも賑やかな方が楽し
いですよぉ、と笑うので、健全な人にはそうかもね、と言って頭を撫でると華子は、エヘヘ、と笑っ
た。あたしはそんな無防備な華子の口に人差し指と中指を押し込むと、油断しちゃダメよ、と言っ
て前後左右に動かし舌を弄び口中を犯すように動かした。
 華子はラバーに覆われた指を口に含まされ、そのゴム樹脂の味や匂いに目を閉じて耐えるよう
にあたしの指を必死に舐めていた。
たとえ人間でもラバーに包まれてしまえばひとつの記号のような道具のような、無機質な存在にな
ってしまう。今の華子の首から上はゴムボールに穴が空いただけの存在だ。あたしはそんな華子
に必死に指を舐めさせる、という行為が堪らなく気持ちがいい。
あたしの指を必死にくわえ舐め回す華子を、こうやって上から見下ろしていると気分が安らぐ気が
する。
 ピチャピチャぴちゃぴちゃ、もっと音をたてて舐めてごらん、あたしの指をペニスだと思えば美
味しく感じるんじゃないの? あたしはフェラチオなんてするのはまっぴらだけど、華子はフェラ
チオするのが大好きなんでしょう? そう声をかけ続けてやると華子は鼻息を荒げて興奮しなが
ら指を熱心にくわえる。でも、華子がくわえることに熱中してきたらそこで指を引き抜いてしまう。
突然指を引き抜いてやると、華子は舌を伸ばしてあたしの指を追おうとするので、意地汚いことし
てるんじゃないよ、と言って頬を張ってやる。
パンパンパンパンパンパンパン、とリズムをつけてトイレ内に響くように左右の頬を何度も平手打
ちしてやる。華子の顔とあたしの手をラバーの皮膜が覆っているからストレートに痛みは伝わらな
いけど、繰り返し叩き続けることで精神的に作用してくる。
 華子は叩かれ続けていくうちに呼吸を乱しセックスしている最中のような声を漏らす。あたしは
その声が聞きたくて延々と彼女の頬を打ち続けるのかも知れない。
ほら、もっと声出してもいいんだよ。ほら、もっと鳴きなさい、ほら、可愛い可愛い、と言って叩き続
けているとあたしも興奮してくるせいかガスマスクの内側が少し曇ってくる。無事にテンションが上
がってきている証拠だ。
あたしはガスマスクを外して個室内の壁から飛び出した、上着掛け用の金属フックに引っ掛ると
両手で華子の頭を強く押さえ腰から生やしたペニスバンドに押しつけ、本格的なフェラチオをさ
せる。
 けっこう大きめのディルドーが生えたペニスバンドはそれだけの重さで下へズレ落ちそうになっ
てしまうほど。そんなディルドーを深々と華子にくわえさせ、たまに喉の奥まで突いて嗚咽させる
のがとても面白い。あたしのペニスはどんなにくわえても射精しないし、歯を立てられても痛くな
い、だからどんなに強引なフェラチオでもさせられるし半ばで射精してしまって中途半端で終わっ
てしまうようなこともない。
他の個室の利用者が何度か交替したり、トイレの水が流れる音を何度か聞きながら華子にフェラ
チオの疑似行為をさせ続けた。
その間、何度華子のウッウッという喉の奥からこみ上げる声を聞いたかわからない。その都度あた
しは、吐いたら殺すからね、と脅して彼女の頭を押さえ続けた。
 そんなことを続けているとお互いに興奮の度合いが高まり全身が熱くなってくる。ラバーで体を
覆われているせいで疲労するスピードも極めて速くなるし熱が籠もり汗で内側が濡れていく。あま
りにその状態が続くと異常に体力を消費してしまうことになるから、ある程度ウォームアップしたら
個室を出て行く。あんまり長時間個室を占領してしまうのも迷惑なことだから。
あたしは華子の首から上を解放してやると再びガスマスクを被り、もう出ようか? と言って扉に
寄りかかった不安定な体勢を立て直し個室を出ると、その外ではそこそこ年齢が高そうなレズの
カップルが舌を吸い合っていた。

 ホールに戻るとステージ上では女ばかりのロックバンドがライブを行っていた。ヴォーカルを見
て、それがさっき紹介されたナオキであることがすぐにわかった。
日本人の女が普通に演奏するような生易しいサウンドではないし、恐いほど破壊の衝動を発する
歌詞が、ナオキという人がどんな人なのかを表しているような気がした。
ステージ上で熱唱するナオキは、どうしようもない殺意を持った目でオーディエンスを見下ろして
いるし、その言葉や声は挑発を通り越して恫喝に近い刺々しさがある。
彼女の音楽のバックグラウンドは日本の、形式だけにこだわった生易しいロックとかではなくて、
アメリカが持っていた暴力的で衝動的なロックのような気がする。
ナオキのバンドのライブは初めてだけど、そのどこかにセックスピストルズが持っていた何かのよう
な、そんな感覚があった。
 あたしの隣で音楽を聴いていた華子が、あの人はきっとすごいサディストですよねぇ、と呟いて
いたので、危険な感じがするね、と相槌を打つと、あの人とつきあったら最後は殺されるかも、と
言ってあたしの手を握ってきた。
まあ、さっき挨拶をした感じでは危険人物ではなさそうだったけど、サディストとしてあたし自身も
多重構造になった精神を内包してるわけだから、ナオキという人が想像以上に危険な人かも知れ
ない可能性はある。
 あたし達が手を繋いでナオキの曲を聴いていると、ちょうどその1曲が終わったところで不機嫌
そうに、ありがとう、と言ってナオキ達はあっさりと引き上げていった。ナオキは1曲歌うとは言って
いたけど、本当に1曲しか歌わなかったようだ。
華子は、インディーズのバンドだったみたいだけど、マーカスさん知ってます? と聞いてくるの
で、Collabo Vanilla&Coっていうバンドらしいよあたしは知らなかったんだけどね、友達と知り合い
らしくてさっき紹介されたよ。ナオキっていうらしいよヴォーカルの人、と言うと、へぇ、マーカスさ
んってすごいですねぇ、私の知り合いはそんな格好いい人に繋がるような人はいないですよ、と
言って、もうちょっと続きっていうか、遊んで欲しいです、と言って抱きついてきた。
 このイベントはプレイ向けイベントじゃないからそういったスペースなんかもないし、人前でプレ
イしてしまえるほどディープなイベントでもないから微妙だ。
前回はさっきみたいにトイレの個室や非常階段なんかで華子の相手をしていたけど、ちょっと外
は勘弁っていうこともあってこの後の続きをどこでしようか、と考えているところだった。
ついておいで。あたしは特にアテなんてなかったけど、スタッフルームのどこかにいい場所がある
んじゃないか、と思って華子の腕を引っ張って一旦ホールを出るとさっきまでいたスタッフルーム
へ向けて歩き出していた。
 スタッフルームの扉をくぐると通路の床に座り込んだボンデージコスチュームの女の子が菓子
パンをモフモフと囓りながら、あ、マーカスさんだ! と指を指しながら声をかけてきたのであたし
は、お疲れ、と言ってあげるとその女の子は立ち上がって、やっぱり格好いいなぁ、と言ってカメ
ラ付きの携帯電話を取り出して、写真撮ってもいいですか? と言うので、どうぞ、と言うと嬉しそ
うに何枚か写真を撮っているようだった。
その子が携帯をしまうのを見計らって、ちょっと2人っきりになれる場所ってないかな? と聞く
と、機材置き場がいいんじゃないですかねぇ、と言って通路の奥の方を指差して、あそこだったら
スタッフの人もほとんど出入りしないし、と言って華子をチラチラ見ながら、そっちのお姉さんも格
好いいですねー、と指差した。
華子は、褒められちゃいましたよぉ、とあたしの腕を引っ張ってベタな照れ方をすると、邪魔しち
ゃいけないですね、と女の子は笑って、あっち、ともう1度指を指して機材置き場の場所を教えて
くれた。
あたし達は、ゆっくりパン食べてね、と声をかけて通路の奥まった部分にある重そうな金属扉のほ
うに足を向ける背中越しに、楽しんでくださいねー、と無邪気な声が聞こえた。
 機材置き場になっている部屋は打ちっ放しのコンクリート剥き出しの造りで、最初から倉庫用に
作られた部屋のようだった。
部屋の中は微妙に埃っぽい空気が足下に淀んでいて、部屋に入ってすぐの入口の壁にあった
照明のスイッチを入れると、カチカチという小さな音が天井から聞こえて飾りっ気のない6本の蛍
光灯に光が灯った。
部屋には照明機材のようなものやスピーカとかアンプとかその他にも何だかよくわからない荷物
が雑然と置かれていて、扉を閉めてしまうとそとの音がほとんど聞こえなくなったので、壁そのもの
にはそれほど手を加えているようには思えないけどかなり厚い壁に仕切られているようだった。
扉には内側からかけられる錠があったので、入るとすかさずロックをかけて足下の床に着いた埃
汚れを靴の裏側で払い、そこに華子を跪かせた。
 華子は、本格的なSMとかってしたことがないんです、とあたしを見上げながら言うので、本格
的なSMってなあに? と聞き返すと、本とかビデオみたいに色々道具を使ったりするやつで
す、と答えるので、道具とか無ければ本格的なSMじゃないのかしら? それなりにお互いがそ
の気になって楽しめれば、あたしはいいと思ってるんだけど、と言うと華子は、痛いこととかつらい
こととか、そういうことってマーカスさんはあんまりしないですよね? と言うので、華子がそういう
のが好きだったら別だけど、普通あんまり痛かったりつらかったりしたらあとが続かなくならない?
少なくてもあたしはそんなにタフじゃないよ、と答えると華子は笑いながら、そうですよねえ、と相
槌を打った。
 あたし自身、そんなにSMが好きだっていう自覚なんてないし、プレイ用の道具なんて鞭とかバ
イブとか役立つものぐらいしか持ち合わせていない。
それ以前に、スッピンのあたしだったらSMの真似事なんてする気も起こらないし、あたしはこうい
う格好をしてこういう場所でこういう要素を楽しみたいだけだから、単にSMが好きで私生活で変
態チックな遊びにドップリっていうわけじゃない。
そんな感じだから、華子に本格的なSMと言われてもパッとこないし、少なからずいつもあたしは
本格的かどうかは知らないけど、本気で楽しめるような遊び方はしているつもりだ。
 あたしはガスマスクを外して大型のスピーカの上に載せると華子の頬に手を当てながら、お前
のそのマスクの下にはどんな顔があるのかしらね、今すぐ剥ぎ取ってお前の顔を晒してやりたい
わ、と囁くと華子は、マーカスさんだけにだったら、マスク脱いじゃってもいいかな、と言っておも
むろにフードの後頭部にある編み上げの紐を解き始めると、髪を押さえながらそのまま脱ぎあた
しが想像していたのとはだいぶ違うしっかりした表情でどこか翳りのある感じがした。
あたしは広めの彼女のおでこに手を当てそのまま髪に指を通すように滑らせながら、結構思い切
りがいいね、賢そうな顔してるじゃない、と言って挨拶程度に彼女の愛らしいおでこにキスをする
と、こういったイベントで素顔を見せたのって、今日が初めてですよぉ、と少し照れたように華子が
呟いた。
華子のせいで、あたしも初めてイベントで素顔を晒すことになりそうね、と言って彼女の鼻の穴に
舌をねじ込むと、こんな変態なことする女の顔だから、そうとう興味があるんじゃないの? と笑っ
て、楽しませてくれたらご褒美に見せてあげるわ、と彼女の唇を何度か軽く吸った。
 華子は、楽しみかも、と言って埃に汚れた床に両手をつきブリッジのような姿勢をとり股を大きく
開くと、前にマーカスさんが言ってたみたいに剃ってきましたよ、と言って股間を高く突き上げる
のであたしは彼女の突き上げられた股間を覆うラバーの皮膜についたファスナーを引き下ろし彼
女の性器を晒すと、剃り跡が少し残ったざらついた性器の周辺から一気に彼女の内部まで尖らし
た舌で斬りつけるようになぞっていくと、あうっ、と華子が声を漏らし膝の安定を一瞬だけ崩した。
あたしは親切に舐めてやるほどサービス精神のある人間じゃないけど、華子の反応を見るのは面
白いから少しの間華子の性器に顔を押しつけるようにして、汚らしいセックス用の穴の周辺や穴
の内部に舌を突っ込んで舐め続けた。
特に突然クリトリスを舌の真ん中の少しざらついた場所で圧迫するように舐めたり小陰唇を噛んで
やると、驚いたようなオーバーな反応をするので可笑しい。
 華子が独りで感じ始めたような、動物に近い声を漏らすようになったらそのままディルドーを彼
女の穴に突き立て、華子に苦しい姿勢をさせたまま腰を振って強引に犯し始める。
ブリッジの姿勢でセックスなんて長時間出来るわけがないから、ある程度あたしが腰を動かし続け
ると彼女は腰や膝から脱力し崩れてしまう。
彼女の小さなお尻が床に打ち付けられると、堪え性のない馬鹿女、と言って彼女の性器やお腹
を靴で踏みにじり爪先で彼女の胸を軽く蹴ると、華子は嬉しそうな声を漏らして、あああ、気持ち
いいですぅ、と間の抜けた声を出す。
あたしは、間抜けな猫がお腹を丸出しにしてだらしなく声を漏らすような華子を、しばらく足で小
突いてからかってやると眉を八の字のように歪めて、おかしな声を漏らして華子は全身を弛緩さ
せた。
 床に背中をペッタリとくっつけ、ほんの少しだけ顎を引いて虚ろな目であたしを見上げる華子
に、これぐらいでのびてんじゃないよ、と言ってフードに指をかけ脱ぎ捨てるように彼女のお腹の
上に放り投げ、変態っぽい顔してる? と声をかけると華子は驚いたように、あー! と眼を見開
いて甲高い声を出すと、宝生要だー! とあたしの名前を呼んだ。
宝生要はあたしがライター時代から使っているペンネームで、今はエッセイストの名前としてそこ
そこ有名になっている。
期待してたとおりのリアクションありがとう、と言うと華子は、読んでますよ、本、本、と興奮したよう
に答えるので、華子からの印税でこうやって遊べてるよ、と言うと、マーカスさんとこうやっていら
れるだけでも幸せなのに、宝生さんだよー、と誰に言ってるのかわからないほど興奮した様子で、
あたしは、秘密だからね。華子が誰かにばらしたら、あたしは鬱になって便器に頭を突っ込んで
自殺するわ、と言うと、誰にも言いませんよー、と彼女はエヘラエヘラした表情であたしを見てい
る。ショックで頭が馬鹿になったような顔だ。
 華子は、ヨイショ、と言って上半身を起こすと、やっぱりマーカスさんとはこのイベントでしか会
ってもらえないんですよね、と言い出すので、どうして? と聞くと、だってマーカスさんは有名な
人だし、プライベートでこういう事ってやっぱよくないんじゃないかなあって、と言うので、ここまで
やっておいて今更って感じしない? あたしはね、マーカス以前に宝生要であって、宝生要以
前に町田翠っていう、自堕落でどうしようもない姉さんだから、マーカスと宝生要を好きになってく
れたみたいに町田翠っていう鬱病の姉さんを好きになってくれるなら、それなりに上手くいくかも
ね、と言ってあげると華子は、本当ですか? あの、わたし本名は館林一葉っていいます、東大
に通ってます、理系だけど宝生さんの本はいっぱい読んでます、と焦りが見える早口で言うので、
それで? と聞くと、あのマーカスさんも宝生さんも町田さんも大好きなので、私と仲良くして下さ
いお願いします、とセンスのない表現でお願いされてしまったら、いいわよ、って答えるしかない
わね。
 一葉、連絡先だけ交換したら今日は別れましょう、リセットしてからでも遅くはないでしょ? と
囁きながら彼女を抱き起こすと、そうですね、と彼女は言って最後にキスだけを求めてきた。
あたし達はほんの数分間舌を絡ませ合うと、お互いにフードを被り直しあたしはガスマスクを着け
た格好で機材置き場を後にした。
通路に出ると、なんやのー? 2人してこんなところでコソコソして、可笑しな子達やなー、と出会
いざまにニルヴァーナに声をかけられた。あたし達には変に笑うしか、答えようがなかった。
ニルヴァーナはあたしの腕を引っ張って、なあ、何してたん? と嬉しそうな顔で聞いてくるので
あたしは、まあ、とか、色々、としか答えられなかった。
ニルヴァーナはあたしの背中をパンパンと叩きながら、エッヘッヘッヘ、と笑うと、お楽しみかー、
と言ってホールの方に行ってしまった。
 華子はあたしと、去っていくニルヴァーナの背中を目で追いながら、エヘヘ、と笑った。
あたしは、だいたいこんなもんだろう、と意味もなく呟くと、今度会うときは…、と華子に言いかけて
やめた。それから先は、さっき交換したばかりのメールですればいい、何かきっかけを残しておか
ないと連絡をとるのが気まずくなるから。

 今夜は薬なしでも寝られるだろうか。自分ではスムーズにベッドインして眠りにつく姿がイメー
ジできている。
でも、華子と別れて、シャッターが落ちた静まりかえった繁華街を独りで歩く姿や、何もない雑然
とした部屋に戻り、孤独だけともいえない何かに怯えて眠ることを考えると、やっぱり薬に頼る羽
目になるんだと思う。やっぱり、あたしはそんなに強い人間じゃないから。


Fin.