蜃気楼の街



 気付くとあたしは紫色の霧に包まれ意識を喪っていった。
意識が途切れる瞬間というのは、まるでテレビが消えるときのようだ、とあたしは思った。
暗転は一瞬だった。あたしは意識を喪った、と認識した次の瞬間には再び紫の霧に包まれて見
知らぬ街の路地に立ちつくしていた。
 あたしが置き去りにされていた街はどこかレトロで、イメージの中でのみ存在する昭和30年代の
どこかの街のようだった。総てがセピアのような黄ばんで曖昧になってしまった、記憶のかけらに
似たそんな光景が広がる場所だった。
 あたしの右斜め前に立つ木製の電信柱には汚れた安っぽしい印刷物が張り付けられていた。
それは宣伝や広告のための紙。つまり何かの興行のビラで「犬神サアカス團やって来る」と真っ赤
なゴシックフォントで印刷されていた。
 あたしは取り敢えず見覚えのない、まるで迷路のようなこの街の路地から抜け出そうと木製の塀
づたいにずっと歩いていくと、再び同じ電信柱とビラのある路地に出てしまった。
最初は似ている場所なんだろう、と思ったが何度も繰り返し歩き続けるたびこの場所に出てしまう
ので、もしかしたら無限に続く回廊なのかも知れない、と恐怖を感じ始めた。
あたしの想像は当たっているようで、幾度も幾度もその路地を歩き続けた結果、時間だけが勝手
に過ぎ去り空が一瞬にして真っ赤に染まっていった。赤い空、それは夕焼けにも良く似た光景だ
った。
 あたしはどうせ同じ場所を行ったり来たりさせられるなら、と太陽を背にするように歩いてきた道
を辿り道順を逆走するように歩き始めた。するとこんどは延々と両側を木製の塀に隔てられた長い
長い一本道が続いている。あたしは何も考えないようにして、その一本路地をずっとずうっと歩き
続けた。
 しばらく歩き続けると、突然木製の塀からヒビ割れたコンクリート状の塀に切り替わった。コンクリ
ート状の塀の内側には、背の低いヒビが目立つ古びたコンクリートの建物やモルタルアパートが不
規則に並ぶ、そんな光景が広がっているようだった。その光景はまるで、和風ゴシックホラーか何
かの、映画のセットのようだった。
 路地は何だかジメジメとしていて、アルコールとアンモニアの匂いがたちこめているような、そん
な陰鬱な気分にさせる場所で、黄ばんだような色をしたコンクリートの壁には鳥居のような落書き
があった。
 あたしはひたすら気分をブルーにさせるその光景の中を歩き続けながら、ふと目を高い場所に
向けると「西岸眼科」と書かれた大きな目のマークが書かれた古い看板が立っているのに気付い
た。それが何だ、というわけじゃないけどいままで具体的な情報、としての存在はひとつもなかった
から、何だか救われたような気がして嬉しかった。
 あたしは西岸眼科の看板を眺めながらその場所を通り過ぎると、突然目の前は薄汚れた木製
の塀に隔てられた袋小路に変わっていた。普段のあたしならばきっとパニックに陥っていたに違
いない。しかしずっとおかしな光景を見せられ続けてあたし自身もどうかしていたんだと思う。
目を瞑りすぐ振り返って10数えれば道は開ける、なんてわけのわからない行動をとってしまった。
「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろぉく、しぃち、はぁち、きゅう、じゅう!」
 あたしは思ったとおりに10数えると目を開いた。
「お前の妹は死んだよ、お前の下駄の鼻緒が切れているじゃないか」
 目を開けると、突然そのおかしな唄のフレーズが耳を突き、目の前に形容しがたい格好をした
女らしきモノが姿を現した。女らしきモノ、というのは包帯で顔をグルグル巻きにした、真っ赤な着
物を着た誰かのことだ。首からぶら下げた壊れた三味線をヒビ割れた爪で掻き鳴らし、甲高い声
で叫ぶようにして唄う不気味な女。
包帯の隙間から僅かに右目だけが覗いていてその右目は真っ赤な色をしていた。そして左側の
目は眼帯で覆われて隠されている。
 あたしの目の前に突然現れた女は肩や胸をはだけさせるようにして赤い着物を着ているが、着
物の下は薄汚れた包帯で覆われていて、何だか不気味だった。
「帰れない子猫は、あてもなく復讐を開始したんだよ」
 不気味な女のその言葉は、何かの歌詞なのかあたしへのメッセージなのか不明だったが少なく
ともあたしに伝えようとした言葉なのは確かだ。
あたしはこの異様な街で初めて出逢った人間だから、何とかしてコミュニケーションをその女と取り
たかった。
「ねえ、ここはどこなの?」
 あたしはそうやって女に問いかけると女はケラケラ笑って、行き先不明の牝豚が、豚箱を求めて
喚くんじゃないよ、と耳障りな音を掻き鳴らして叫んだ。目の前の女が精神異常であることはよくわ
かった。ただ、例え異常者でもこの女に頼らなければあたしはこの街を出ることも、この街で生活
することすらできない。あたしは再び女に声をかけ続けた。
「あたしは、どうしてもこの場所から出たいんだ」
 逃げ場所なんて、お前にはないね
「逃げるんじゃない、帰りたいんだ」
 牝豚が帰る場所は地獄か、薄汚い豚の子宮さ
「駅の場所でもいいから、教えてよ」
 先急いだって、あの世からのお迎えは来やしないよ
「電車か、バスに乗りたいの」
 そして轢かれて死ねばいい。バラバラバラバラ、綺麗に散って
「あたしの街に、帰りたいだけなの」
 お前のような、逃げてばかりのツマラナイ生き物に、帰る場所なんてない
「それじゃあこの街で、暮らしていけるの?」
 永遠にね
「どういう意味?」
 お前の帰る場所は、もうない
「どういう意味?」
 こういう、意味さ
女の甲高い、その言葉が脳裏に何度も反響して、再び暗転した。
あたしの視界に光が戻ると、目の前に広がる光景は6畳1間の安アパートの和室のようだった。あ
たしはその部屋の、黄ばんでささくれ、そして湿気を含んだような畳の上に寝かされていた。
「目を覚ましたね」
 包帯で顔を隠した女があたしの顔を覗き込んでそう言った。あたしはその聞く者すべてに漠然
とした恐怖を植え付けるような不穏な予兆ともいうべき声に、一瞬だけ何か得体の知れない闇を感
じた後、何をというわけでもなく辺りに目を遣った。
 すると、あたしは裸の上に真っ赤な肌着のような着物を纏わされた格好で、左手首には真っ赤
な縄がくくりつけられていて、その先端は少し伸びた先にある包帯で顔を隠した女の、着物の袖
の中に消えていた。
 あたしは顔を覗き込む不気味な包帯の女を見上げながら、ここはどこなんですか? と尋ねる
と、掃き溜めの世界、終わりがなくて始まりもない流れ着くべき場所、路地裏でまわされて死んだ
中毒女の子宮、真夏のコインロッカー、そう言ってケラケラケラケラと笑ってあたしの唇めがけて、
包帯の隙間から涎を注いだ。
あたしは女の不気味さと行動の不愉快さ、そして理解できない言葉に異常な痒みに似た不定形
の不安と恐怖があたしの内部を埋め尽くしていった。
 女はあたしの髪を掴んだり顔を撫でたりしながら、可愛い可愛い、と呟いてそして、喪ったもの
は絶対かえっては来ない、いくらその名を呼んでも無駄、一度喪ったらもう元に戻らない、だから
大切なものは手放しちゃあいけないんだよ、そう言ってあたしの首を絡みつくように緩く締めつけ
ていった。
 あたしは、どうせあたしを殺すんなら、名前ぐらい教えなさいよ、と首を締めつけられ詰まった喉
で叫ぶと女は、首吊り坂、首吊り屋敷の首吊アヤコ様だよ、と言って包帯の隙間から覗く口から真
っ赤な舌を出してあたしの顔を舐めると、お前の名前を決めてあげようね、お前は千草だよ、と言
ってあたしの首から手を離すと女はおもむろに目の前の襖を開けてその奥へ消えていった。
 半分だけ開いた古びた襖の奥は虚無のような闇で、先を見渡すことすらできなかった。
先の見えない闇に目を凝らしていると奥から二つの人影のようなものが見えて、それは首吊アヤコ
に赤い首縄を引かれて後をついてくる、おかっぱ頭の赤い着物を着た日本人形のような女の子
だった。
 日本人形のような女の子は薄白い肌をしていて、首や体をカクカクさせてぎこちない動きであた
しの前にやってくると、白くて冷たい顔をあたしに押しつけた。その顔は日本人形のお菊人形にそ
っくりで不気味だ。
首吊アヤコはあたしを見下ろしながら、これは私のお菊人形さ、お前みたいな娘にたっぷり石膏を
塗り固めて作るんだ、と言って嬉しそうに人形の顔を撫でて、でももう用済みだね、と言って思い
切り人形の首に巻き付けられている赤い首縄を引っ張った。
 人形は天井を見つめたまま簡単に畳に倒れると、首吊アヤコはケラケラ笑いながら、古いお人
形は壊れてしまえ、と言って思い切り人形の顔面に壊れた三味線を叩きつけた。
三味線が砕け散り石膏で塗り固められた人形の顔がひび割れた。
そして、ひびの下からは焼けただれた顔が覗いていた。
あたしはその顔から目をそらそうとすると、お人形に顔はいらないでしょ? だから綺麗に焼いて
あげたのよ、と言って真っ赤な目であたしを見つめていた。
 首吊アヤコは、愛する者が死んだときには自殺しなけりゃいけないのよ、たとえ愛する者が死な
なくてもお前は死ななきゃいけないのよ、と言って壊れた三味線で人形女の顔を殴り続けた。あた
しは血が飛び散るその光景を直視できずに震えていると、千草、お前の顔も焼き潰して新しいお
人形にしてあげるからね、と首吊アヤコは呟きながら壊れた三味線を振り下ろし続けた。
そして、血生臭い空気に包まれた小部屋の中、赤黒い血溜まりの中に首吊アヤコは突然うずくま
り、天井を見つめたまま涙を流しながら体を硬直させ、飛び散った三味線の破片を掴むと、そのま
ま自分の手首や腕に破片の鋭く尖った部分を突き刺しおかしな声を出して高らかと笑った。
 あたしはその光景がひどく恐ろしく、今のうちに逃げてしまおうと思ったけどどうしても体が動か
ず、その場から逃げ去ることもできずにただ、首吊アヤコが傷ついていく姿を見続けなければいけ
なかった。
首吊アヤコは自らを傷つけながら、千草、逃げたいなら私を殺してから逃げるんだよ、そうあたしを
見つめながら言った。良く透る、クリスタルグラスハープのような、そんな声で。あたしはその言葉を
上手く理解できなくて、そうやって自分で自分を殺せばいいだろ、と叫ぶと首吊アヤコは可笑しそ
うに笑って、簡単に死ねたなら私は苦しまない、そう言って手首を切り続けた。
 あたしはそんな首吊アヤコに痛みはないのだろうか、とか思いながら、あたしはアンタみたいな
異常な奴のために殺人者になんてなりたくないね、と言うと首吊アヤコは、私を殺さなければお前
は私に殺されるんだからね、とゲラゲラ笑うのであたしは、アンタはなんでそんなに死にたがるん
だよ、人まで殺してさ? と問いかけると首吊アヤコは相変わらず笑い続けながら、1秒ごとに自
分が壊れていく苦痛を千草は知らないだろう? 最後に残った1パーセントの自我を99パーセン
トの壊れた私が飲み込もうとしている苦痛と恐怖から逃げるには死ぬしかないんだよ、でも私は自
分じゃ死ねないのさ、だから私を殺してくれる誰かをここで待ってるんだ、と答えあたしを見つめな
がら、だから早く殺して、と呟いた。
 それでもあたしには人は殺せない、あたしの手を血に汚すことなんて、したくはなかった。
首吊アヤコは血塗れの手で顔を覆う包帯を撫でながら、誰かを殺した瞬間だけ喪われた私が戻る
んだよ、そしてそのたびにこうやって死のうとするんだ、でもどうやっても死ねないんだよ、と言って
奇声をあげた。
 殺されれば死ぬのに、自殺は出来ない、なんていうことがあるんだろうか、あたしはそのことを首
吊アヤコに尋ねると、こんなことを望んだわけじゃないんだ、と悔しそうに叫んで、生まれつき私は
いつ死ぬかもわからない、そんな病気に冒されていつも病院のベッドの上で迫り来る死の恐怖に
怯えていたんだ、だからいつか元気な体になって自由に生きてみたいと思って毎日毎日毎日毎
日毎日、病院の前にあった教会で祈り続けたよ、わけのわからない病気に私の総てを奪われるな
んて悔しいじゃないか! と叫び転がった死体に三味線の破片を突き立てそして、そうしたらある
日いつものように祈っていると目の前に天使が降りてきたんだよ。私はすぐに天使が私を助けに
来てくれたんだと思ったよ、私は舞い降りてきた天使を眺めながら無意識に手を伸ばしていて、そ
んな私に天使は優しく微笑んでそして抱きしめてくれて、ずうっと生きていたい? と問いかけて
きたんだ、幼い私はただずっとずっと生きていたくて天使の言葉に頷くと、天使は微笑みながら自
分の手を差し出して黒くて綺麗な羽でその白い手首を傷つけ、そこから流れ落ちる血を飲むよう
に言ったんだ、私はその光景が恐くて恐くて仕方なかったのにただ生きたい一心で天使の手首
に唇を当ててその溢れる血を飲むと頭の中が真っ白になって、そこまで言うと首吊アヤコはガック
リと肩を落としあたしを見つめたまましばらく黙り込んでしまった。
あたしは何も言わなくなった首吊アヤコに、最後まで話してよ、と呟いていた。
 首吊アヤコはしばらく黙っていたけど再び良く透る声で、遠ざかる意識の中で、ずっとずっと私
のために生きていきなさい、自殺なんて許されないことよ、私が与えた命を大切にするのよ、と天
使の声が聞こえてそのまま私は意識を喪って…気付くと病院のベッドの上にいたんだ、そして目
覚めた私に医者は、奇蹟が起こったとしか言いようがありません、と言って私の病気が完治したこ
とを教えてくれた。それ以来、私はどんな病気にもかからなくなったし、どんなに怪我をしてもすぐ
に治ってしまう不思議な体になったんだ、そして少しずつ壊れ始めていったんだ、と言い終えると
あたしに手を伸ばして、こんなことを望んだんじゃない、と悲しそうに悔しそうに震えながら呟いた。
天使の話なんて信用できないけど、今私自身に起こっていることを考えると首吊アヤコの前に現
れた天使の話も事実なのかも知れない、と思った。
 首吊アヤコは、壊れ始めてからおかしな世界が見えたり天使の命令する声が聞こえるようにな
ったんだ、そして天使が、1人殺せば1時間だけ私に自我が戻る、と教えてくれて…私が誰かを殺
すたびに不思議な力が使えるようになって…もういい、もういい、早く殺してよ、と首吊アヤコはフラ
フラとあたしに近づいてきて、あたしに三味線の破片を握らせると、これで私の首を指せば私は死
ねるんだから、と囁き続けるけどやっぱりあたしには人は殺せない。
 あたしは首吊アヤコに、どんな顔をしてるかわからないヤツを殺すわけにはいかないよ、と言うと
首吊アヤコはゲラゲラ笑って、何も言わずに顔を取り巻く包帯に手をかけそれを外していった。
首吊アヤコの顔を覆う総ての包帯が取り去られると、長い黒髪のクリクリした目の女の顔が現れ
た。それは想像していたようなグロテスクさはなく、可愛らしい顔をしていた。
 首吊アヤコの顔は、丸顔で不思議な微笑みを浮かべていて、それがあまりにも穏やか過ぎるこ
とが不気味だった。首吊アヤコは笑った顔のまま鋭く尖った三味線の破片を掴み、あたしの手に
握らせるとその手を覆うようにして手を添え、もう片方の手であたしの髪を掴み思い切り自分の顔
の前に引き寄せると、出来れば、忘れて欲しくない、と呟いて厚みのある唇をあたしの唇に重ね
て、舌を噛むようにキスをするとそのままあたしの手を引っ張って、自分の首に三味線の破片を突
き立てた。
 首吊アヤコの首に破片が突き刺さった瞬間、目の前の女の顔はとても安らかな表情で笑い、そ
してその口から大量の血が溢れ出した。溢れる血は舌と舌を伝ってあたしの口に流れ込み鉄色の
味をあたしの脳に刻んでいく。あたしが驚いてその破片から手を引き離したときには、既に傷口か
ら破片は抜け落ち大量の鮮血が吹き出していた。
 あたしは首吊アヤコの大量の血を全身に浴びながら、気を喪うほどの激しい鉄色の臭いと味に
意識を朦朧とさせながら、死に行く目の前の女を抱きしめていた。
血飛沫はすぐに収まり、抱きしめた首吊アヤコの体が硬く、重く、そして冷たくなっていく、別れの
口づけぐらいはしてあげよう、あたしから彼女への唯一の同情だった。
 ひとつの死骸と、ひとりの死体が横たわる部屋であたしは為す術もなく、ただ低い天井を見上
げて溜息をつくしかなかった。今まで気づきもしなかった、小さなガラス窓の向こうには世界を焼き
尽くすほどの鮮明で鮮烈な夕焼けがあった。
 眠ればきっと、夢のあと。そうに、違いない。あたしがそう呟いた瞬間、どこか遠くの世界が閉じ
る音がした。

THE END