ホワイトクリスマス


 あたしが学校へ行かなくなってからもう2ヶ月経つ。
あたしは、今でもそうだけど市ヶ谷の女子校に通っていて、2ヶ月前まではずーっと無難に毎日を
こなしてきたように思う。でも最近、こう、なんて言っていいかわからないけど特に無難に過ごしてき
た毎日が、とても無駄に思えてくるようになった。
 例えば毎日真面目に学校へ通うことも、そこそこ真面目に勉強することも、あたしにとってどれ
だけの価値があるだろう。このままどこかの大学へ進んでも、専門学校なんかに進んでも結局は
仕事に就けるか就けないかは、誰も保証はしてくれない。
それよりも、たくさんお金を払って更に進学したって、学校なんていう場所には、あたしを充たして
くれる要素は何も詰まっていないように思える。
 学校は、人間が最初に本格的な社交性を身に着ける場所だ、とか言うヤツがいるけどあれは違
う。確かに、学校にはたくさん人が集まってはいるけど、誰も他人に対して本当に興味なんて示し
ていないし、誰も自分に対して注目なんてしてはいない。
誰もが同じく持っているのは、他人とは一定の距離を置き、心と心の間には壁を作り、関係という
言葉の間に溝を掘り、とにかく必要以上に干渉しないようにされないように、自分の領域を荒らさ
れないように、ただそれだけに必死になっている。
 あたしはそういった世界は別に嫌じゃない。ただ、興味の対象もなく、誰かがあたしに注目して
くれるわけでもない、そんな世界にわざわざ留まる必要性はなかった。
書を捨て、街に出よう、という言葉があるけどあたしの場合は、学校を捨て、街に出よう、といった
感じだ。あたしは学校を捨てて街に出た。
 でも結局、街へ出てもまんが喫茶でダラダラ過ごしたり、どこかのデパートの中をブラブラ歩い
たり、その程度でしかない。あたしは制服を着て、昼間なのに学校へ行かずまんが喫茶に入った
りでパートを歩いたりしているのに、誰もあたしを怒ることもないし罰を与えることもない。それぐら
い誰もが誰かに注目をしていない。
 あたしはいつも澁谷から青山への道を行ったり来たりしてるんだけど、12月の半ばを過ぎた最
近、不思議なものが見えてくるようになった。それは南青山の住宅街の中を歩いていると突然、目
の前に現れる。その不思議なものというのは、恐ろしく大きな真っ白な建物のことだ。
あたしはその建物がなんなのか知りたくて、今まで何度もその建物の入り口まで行くんだけどあた
しが入り口に近づくと、大きくて立派な建物は突然に質感を喪い消え去ってしまう。
昨日までは、確かにそうだった。でも、今日はその建物があたしを迎え入れてくれる、そんな予感
がした。それは、今日が世界的にもこの国でも、クリスマスイヴという少しだけ特別な日だからだ。
あたしは昔から、クリスマスイヴには必ず奇蹟が起こる、と信じてきたから、今日はその奇蹟が実際
に起こるような気がする。
 澁谷から青山までの一帯は、クリスマスが近づくと日本であることを一瞬だけ忘れさせてくれるさ
わやかな風が吹くような気がする。それは、街の雰囲気がクリスマスという外国の空気で洗われる
からだ、とあたしは思う。
クリスマスが近づくごとに街の空気がどんどん変わっていって、あたしはその変化が楽しくて意味
もなくその変化を眺め続けていた。
 12月24日、その変化はピークに達していて、あと30時間に満たないうちにこの空気はどこかに
流れ去ってしまう、そんな雰囲気が漂っている夜の南青山にあたしはいた。
あたしは毎日のように不思議な建物が見えていた住宅街を訪れると、微かに鈴の音が聞こえて柔
らかな雪が降り始めた。
 雪が降る瞬間、急激に世界が凍てついて空気が透明になる。そして誰かとても遥かな世界にい
る人の息吹と共に雪がやってくる。今夜は本当にそんな雰囲気だった。雪が降るあいだ世界は無
音になる。そして幻聴のように鈴の音が聞こえてくる。
あたしはその微かな鈴の音を聞きながら不思議な建物が見える場所へと進んでいった。不思議な
建物はいつもよりも数倍、鮮明に目の前に現れた。
 目の前の建物は雪よりも真っ白で、とても大きなどこかヨーロッパを思わせるような建物だった。
それは宮殿にも見えるし大聖堂のようにも見えるしただの白い塊にも見える。
あたしはいつものようにその入り口まで近づき、あたしの身長を遥かに越える扉に手をかけると、そ
の扉も建物の消えることなく強烈な質感を持ち、あたしを静かに受け入れた。
 大きな扉は音をたてず微かに隙間を作り、あたしはその隙間に体を滑り込ませていた。
扉の隙間の先には大理石で作られた巨大な空間が広がっていて、空間の中央には大きな噴水
つきの泉があった。円形の泉の中央にはヨーロッパ風の石像が置かれ石像の一部から水が溢れ
ている。
 あたしはその泉に近づき水を覗き込むと、水面にあたしの姿は映らずに金色の光が迸って、あ
たしが驚いて顔を上げ辺りを見回すとあたしを取り巻く世界は一変していた。
ただ広いだけの空間は消え去り、とても広くとても天井が高い見たこともないような荘厳な聖堂の
中央に、あたしは置き去りにされていた。
 とても高い天井には、たぶん聖書か何かの場面を描いたんだろうと思われるパノラマの絵が描
かれていて、すべてのステンドグラスはまばゆく光り輝いている。
その聖堂の中を照らす照明は蝋燭の灯だけだ。それでも昼のように聖堂内が明るいのは激しいス
テンドグラスの輝きや、理由すらわからない明るさの仕業だった。
あたしの前後には無限につながるいくつもの横列状の椅子があり、その中央を切り裂くようにまっ
すぐと伸びた通路にあたしは立っている。
 あたしは突然の出来事に戸惑いながら、ただまっすぐとその通路を歩き始めていた。
あたしの遥か目の前には巨大なステンドグラスと、巨大なパイプオルガン、そして祭壇が見える。
あたしが一歩足を進めるごとに遠くに見える景色がもの凄い勢いであたしに近づき、一瞬にしてそ
の祭壇の目の前にあたしは辿り着いていた。
 大聖堂の祭壇には黒く光沢のある素材で出来た修道服に身を包んだ修道女が蹲るようにして
祈りを捧げていた。祭壇の上には、磔にされたナザレの大工の姿はなかった。
磔にされたナザレの大工の代わりに全裸の女の人が磔にされ、その体中に蝋燭が立てられてい
て、裸の女の人は体に垂れてくる蝋に叫び声をあげていた。
 あたしが祈りを捧げている修道女の後ろに立つと、その修道女は立ち上がりあたしの方を振り
返り、この瞬間を待ちわびていました、と静かに囁いてあたしに手を差し出してきた。
修道女の顔は真っ白に化粧が施されていて素顔はわからなかったけど、とても大きな瞳や痛いぐ
らいの鋭い睫毛、厚みのある黒い唇はあたしが知っているどんな絵に描かれたものよりも美しいよ
うに思えた。
 あたしは差し出されたその手に触れると、時空を超えてこの12月24日という日には共通した歪
みが生まれる、神の意思が届かなくなるこの瞬間に、常に奇蹟の種が蒔かれているのよ、と修道
女はあたしに語り、奇蹟の種が蒔かれる日付の変わるその瞬間まで、パイプオルガンの音に体を
ゆだねなさい、とあたしの手を引き大きなパイプオルガンの前まであたしを導いていった。
 金色に輝く巨大なパイプオルガンの前まで行くと、それはパイプオルガンなどではなくて、複雑
に入り組んだ金色のフレームの中に埋め込まれた、全身を金で固められた何人もの裸の女の人
達だった。
祭壇の上で磔にされていた女の人といい、パイプオルガンに組み込まれてしまった女の人達とい
い、現実とかけ離れたその光景にあたしは何の言葉も生まれては来なかった。
 修道女はパイプオルガンの前に置かれた椅子に座り、鍵盤状のものに手をかけると突然パイプ
オルガンのような巨大なものは不気味に動き始め、組み込まれた女達の体に無数の突起物が食
い込んでいき、女達はそれぞれが甲高い声で叫んだり喘いだりを始めた。
修道女はパイプオルガンを弾くように手を動かしながら、無限の処女の叫びが未知への扉を開
く、悲痛と絶望の合唱が終えるとき、終末を超えて奇蹟の種が蒔かれるでしょう、と唄うように朗々
とあたしに語りかけあたしはその言葉にも光景にも、何も答えることは出来なかった。
 パイプオルガンは修道女が手を止めても動き続け壮絶な音を奏で続けている。
あたしは放心とも正常ともつかない精神状態でその光景を眺め続けていると修道女はあたしの方
を振り返り、さあ、祈りなさい、と言って手を大きく拡げ空を仰ぐような仕草をすると、突然修道女の
背中から黒い大きな翼が幾重にも重なり展開し、あたしを包み込むようにして翼が閉じる。
あたしは柔らかな繭や殻に包まれたような気分になり、体が軽くなるのを感じた。
 あたしの体はどんどん重力の拘束を感じなくなっていきついには無重力空間に体が浮いている
ような感覚に陥った。
あたしはありったけの力を込めて重く閉じた瞼を開くと、目の前には黒く大きな翼を羽ばたかせな
がらあたしを抱く、美しい黒髪の女の人が微笑んでいた。
その人は服を纏ってはいなくて裸だったけど、あたしのような貧弱な体型ではなく、どう表現してい
いかわからないけど、とても美しかった。
あたしはその人がさっきの修道女であることもわかっていたし、そしてあたしを抱いている人が天
使であることにも何となく気付いていた。 
 たぶん、生きていても何の価値もないあたしを天使が迎えに来てくれたんだと思った。
あたしが今まで生きてきたご褒美に、クリスマスプレゼントとして、そして奇蹟として、天使があたし
を迎えに来てくれたんだと思った。
あたしがその人に、あなたは天使なんですか、と尋ねるとその人は優しく笑って、私はミカエル、奇
蹟の種を蒔き、そしてあらゆる命を与える者、と直接あたしの頭の中に語りかけてきたので、あたし
のことを迎えに来てくれたんですか? と尋ねると、お前に行くべき世界はなく、そして迎え入れ
る世界もない、ただ苦痛に満ちたこの世界で生き続けることがお前に与えられた使命だ、と告げて
あたしに口づけをしてきた。天使の唇は驚くほど柔らかくてそれはマシュマロの感触に似ていた。
 あたしは、何故あなたはあたしの前に現れたのですか? と尋ねると、お前は奇蹟の種として
選ばれたからだ、と告げ、お前は私にとっての奇蹟の種、お前の体をよりしろに私はもう一度汚れ
た大地へと降りるのだ、と語りかけてきた。
あたしは天使の言っていることがまったく理解できなかったけど、天使があたしを選んでくれたの
は確かだった。あたしはどんなことであれ、あたしを必要としてくれる人がいたことが嬉しかった。
 天使は微笑みながら、お前達の生きる大地は醜く汚れている、だから私がそんな世界に審判を
くだしてやろう、お前は私の器になるために選ばれた奇蹟の種だ、と告げあたしを空とも無ともつ
かない空間に浮かべると真空の風みたいなものであたしの衣服を引き裂いていった。
そして、あたしの体が裸になると天使は優しく微笑みながら、清らかなその血を流しなさい、血を
流すことでお前の体に染みついた総ての不浄が洗い流されるから、と言って黒い翼を成すいくつ
もの鴉の羽のような黒く艶やかな羽をあたしの体に向けて放つと、羽のひとつひとつが意志を持っ
ているかのようにあたしの手首や足首、そしてふくらはぎや乳房の上、頬や首に向かって風を切っ
て飛んできた。鋭い風のように無数の羽はあたしの体を傷つけ、あたしの体に赤い筋をいくつもつ
けていった。
 羽は同じ場所を少しずつずらしながら浅く浅く傷つけていく、そのたびに血が滲むように流れ幾
度も傷つけられた部分は少しずつ腫れていき、鮮やかな赤と黒ずんだ赤が混ざり合った血筋をつ
けていく。流れる鮮血はすぐに粘性を持ち始めるけど、幾度も幾度も同じ部分を傷つけられ徐々
にサラサラとした流れに変わっていった。
あたしから溢れる血液は激しく錆びついたような匂いを漂わせ吐き気を催させるけど天使はあたし
から流れ落ちる血の流れを眺めて、その一滴一滴にはお前の体を蝕んでいた不浄がとけ込んで
いるのよ、それはいくら口で死を望んでも無に還ることを望んでも、その血を見ればすぐにわかる、
だから総ての不浄は血と共に流し去ってしまいなさい、お前の下半身から流れ落ちる血のように
ね、と言いながらあたしに細かく細かく傷をつけ続けていった。
 あたしは大量の血を喪っていくことが痛いほど感じ取れる。体が怠く痺れて痛みも苦しみも遠ざ
かっていく、そして体が寒くて仕方がないんだけどそれでも体のどこかが燃えるように熱くて、失血
死っていうのはこういうものなのかな、とか思いながらぼんやりと意識とかけ離れていく。
 天使は大きく十字のように腕を伸ばし深く息を吸い込むと、天使の左手の辺りがまばゆく輝いて
徐々に光は長い長い西洋の剣へとかたちを変えていった。
そして、天使は微笑みながらその剣を自分の下半身に突き刺し、まるで剣を鞘に収めるようにズ
ブズブと下半身に沈めていくと、一瞬にしてそれは信じられないほど大きな男性器に変わってい
た。
 あたしはぼんやりとその不思議で神秘的な光景を眺めていると、大きな男性器はクネクネと動き
今度は蛇が穴から這い出すようにしてあたしに向かって伸び始めた。
クネクネ伸びる男性器は無数の血管が浮かび上がっていて赤黒く、美しい天使の体の一部とは
思えないほど醜く不気味だった。
 伸び続ける男性器はついにあたしの脚と脚の真ん中に到達して、身体の内部にズルズルとめり
込み始める。男性器の表面は激しく波打っていて、あたしの内部の細胞にその蠢きが直接伝わっ
てきて、その蠢きはあたしの胃壁まで震わすかのようだった。
 あたしは金魚のように口をパクパクさせて天使を見つめていると、天使の瞳が徐々に蛇のような
緑色の瞳に変わっていき、先が二股に別れた蛇のような舌が長く長く口から伸び、それはすぐに
あたしの胸に絡みついてしまった。絡みつく舌の先端はあたしのと首を激しく刺激して、あたしの
背筋をゾクゾクとさせる。
 天使はあたしの下半身から内臓を震わせるほど激しく男性器を動かし、更に長い舌であたしの
胸や唇、そして舌に喉の奥までを吐き気がするまで刺激し続ける。
あたしは何度も胃液の逆流を経験しながら為す術もなく天使の行為をずっと受け入れ続けた。
天使は目を細めながら、総て総て喪い尽くしなさい、お前は生きているだけの空っぽな器になれ
ばいいのよ、そうすれば永遠の安らぎを得られるから、安らぎというのはね、総てを喪って初めて
得られる無限の喪失感、そして無限の虚無感、そして無限の孤独、お前の耳から音が喪われ、瞳
に宿る光が喪われ、体に宿る温もりが喪われていく、そして最後にお前という総ての存在価値が
喪われ、お前は限りなく私の一部と消える、とあたしの内面へ語りかけ、安心しなさい、恐怖はもう
お前にはないでしょう? お前の総てが喪われる前に私からの祝福を与えてあげようね、そう告
げてあたしの体内に恐らく数リットルを超えるほどの高熱の体液を放ち高らかな声で、第七番目の
天国の扉は開かれた、さあ張り裂けるほどの声を上げて、苦悩を突き抜け歓喜に至れ! と叫ん
だ。天使の言うとおりあたしには恐怖なんていうものは微塵もなかった、恐怖よりも言葉には表せ
ないような充足感が満ちているように思う。
 天使の叫び声は総てを引き裂く大音量で空気を振動させて、あたしの総てをまるでガラスを砕
くようにして粉々にしていった。
もう、苦しむのは終わりだ、狭く窮屈な世界が閉じる、あたしを無視し続けた世界を私は捨てる。天
使の翼を借りて、あたしは遠い旅に出かけるんだ。苦しみのない安らぎに満ちた永遠の旅へ。

 遠くで鈴の音が聞こえる。ここはどこだろう? ここは、教会?
目を覚ますと私は裸で、目の前には見上げるほどの天使の絵があった。天使の絵は壁画の他に
もステンドグラスなどがある、大天使ミカエルが華麗に舞う神秘的な絵だった。
 私は、誰なんだろう? 何も、想い出せない、頭が痛い。
どうしても私が何者であるかわからない、名前すらも思い出せないのにそんな私に何がわかるとい
うのだろう。たぶん、私は天使かも知れない。そうだ、私はきっと天使だ、翼を喪った天使だ。私の
名前はミカエル? 違う、美香? いい名前だ、きっと私の名前に違いない。
 私はフラフラと立ち上がり、祭壇に脱ぎ捨ててあった修道服に身をくるむと、穏やかで暖かな誰
もいない教会のような場所を後にした。外は一面の銀世界だった、私の頬に粉雪が触れて溶け
た。今夜はホワイトクリスマスなのか。
私は嬉しくなって雪の上を飛び跳ねて歩いてみると、背中に羽があるようにフワフワと体が浮かん
だ。このままフワフワと私はどこへ飛んでいけるのだろう。

To be 天使が堕ちた街...