死界


 まるで光の海だ。あたしの足下を無数の光達が埋め尽くしている。空に近いこの場所は、風がとても冷
たくて、そして激しい。足下の光の海と同じぐらいの、星の海が空にも広がっていた。都会の空に星なんて
ない、そう信じていたあたしには信じられない、美しい光景だった。
美しい、光のちりばめられた世界に、あたしは引き留められるようにしばらくその場所に立ちつくしていた。
決心が変わりそうで、心が揺らぐ。
 あたしは高層ビルの屋上に立ち、破滅の道を歩もうとしている街を見下ろしながら、終末の風に身を
晒していた。どれぐらいの時間、そうしていたかはわからない。永遠のようにも感じるし、一瞬のようにも感じ
る。あたしはこのまま、空が飛べるかもしれない、そう思いながら屋上の果てにあるコンクリートの段に足を
かけ、光の海へ飛び込んだ。遥か下へと高速で落下しているはずなのに、体が浮いているような感覚がす
る。音の感覚が微妙にズレ始め、すべてがスローモーションに切り替わっていく。そして、どんどん光の海が
近づいてくる。
 あたしは確実に一瞬の死に近づいている。あたしがもうすぐ終わる。そう思った瞬間だった、あたしの遥
か下にあたしを見上げる女の姿があった。常識でいえば、そんな姿が見えるわけもなく、そんなことがあり
得るわけもないのに、なぜかはっきりとあたしを見上げる女の姿が見える。あたしを見上げる女の髪は非
常識に長く、そのすべてが漆黒の夜の闇であるようだった。
 あたしを見上げる女とあたしの距離がどんどん縮まり、女とあたしの視線が交わった瞬間だった、女は
微かに笑い両手を思い切り拡げ、その唇が、さあ、おいで、と動いているように見えた。あたしの落下速度
は光を超えて音がなくなり、手を拡げ女が笑う。

─永遠と、一瞬の暗転。

 あたしは一切の衝撃も、痛みも感じることもなく真っ暗な闇に包まれた。
これが死というものなのか、と思った瞬間だった、街はすべての輪郭だけを残し質感を持たない闇の世界
に変わった。どこまで見渡しても果てしない暗黒、無音無風無人のその空間に街やビルが輪郭だけをとど
めている。
 死の世界というのはなんて無機質で素っ気ないものなんだろう、あたしがそう思った瞬間、広大な暗黒
世界に無数の白い光が散らばり、一瞬にしてそこに広漠たる宇宙空間に似た世界が広がった。まるで無
から宇宙空間が生まれたときのように、恐ろしいスピードでその世界は拡がり続けた。
あたしはそんな不思議な空間に仰向けに置き去りにされ、宇宙が生まれて拡がるシーンを眺め続けてい
た。それはプラネタリウムの億千倍の真実を語っているようだ。
 しばらくあたしは拡がり続ける世界を呆然と眺めながら、始まりと終わり、という言葉を呟き続けていた。
そしてあたしが、始まりと終わり、を80回ほど繰り返す頃には俄な風が吹き始め、風に乗って黒い羽根が
あたしの上に舞い、あたしはその羽根を掴もうと手を伸ばすと、あたしの手の平でいくつもの羽根たちは溶
けるように消えていった。あたしは手の平の上で消えていく羽根を見つめながら、終わること、の意味を漠
然と理解した気がする。
 あたしはどんどん強まっていく風の中、腕を支えにして体を起こそうとすると突然、目の前で光がはじけ
て白い手が伸びてあたしの手を掴んだ。その手はあたしの体を引き上げるようにして腕を引っ張りあたしの
上半身を起こしてくれた。あたしは手が伸びている眩しい光のなかに目を凝らすと徐々にその光は収まっ
ていき、人影のようなシルエットに変わった、そして人影のようなシルエットは質感を持ち始めすぐに裸の女
の体に変わっていった。
 あたしの目の前に現れた裸の女は、闇に等しい黒くて長い髪を風になびかせ、それ以上に深く黒い色
をした翼を持っていた。女はあたしを抱き寄せ、あたしを黒い翼で覆い隠すように包み込むと、天使には
滅び行く運命にない魂を回収し、救う使命がある、そうあたしに語りかけ、魂の救済は天使の仕事、そう
言いかけ、突然高らかな声で笑い始めた。
あたしは鼓膜を突き破るほどの笑い声に思わず目を閉じると裸の女は、だからもう一度お前に、生きる機
会を与えよう、と言ってあたしに口づけして息を吹き込んできた。
 その瞬間、もう一度あたしの意識がとぎれた。

─永遠と、一瞬の暗転。

 「朝だよ、起きな。香苗、目を覚ますんだよ」
 その声で目を覚ますと、あたしは真っ白な何もないまるで病室のような部屋の、白いパイプで組まれた
病院のベッドに寝かされていた。そしてベッド脇には黒いナーススーツを着た看護婦が立っていた。
 黒い看護婦はあたしが目を覚ましたことに気づくと、生き返った感想はいかが? とあたしに尋ねてくる
ので、最初あたしは何のことだかわからずに看護婦の顔を見つめていると、看護婦はあたしの顔を覗き込
んで黒く塗られた厚ぼったい唇を少しゆがめて笑顔を作ると、生き返った感想はいかが? ともう一度聞
いてきた。
 あたしは看護婦の深い黒色の瞳や食虫植物のような睫毛のはえた目を見たとき、その看護婦があの
天使と同じ顔をしていることに気づいた。そしてあたしはあの夜、高層ビルの屋上から夜空に舞ったこと、そ
して死んだこと、天使に抱かれたこと、そういったことを思い出した。
あたしは看護婦に、あのときの天使はあなたですか? と尋ねると看護婦は、看護婦はたいてい天使な
んじゃないかしら? と笑って、だから私は黒衣の天使ね、と言って高らかとした声で笑い始めた。その笑
い声はあの天使と同じ鼓膜を破るような、笑い声。
 あたしはベッドから身を起こそうとすると、ギュッと体が締めつけられるような感覚が走り起きあがることは
できなかった。看護婦はあたしを見つめながら、拘束衣よ、と言ってあたしに掛けられていた布団を引き剥
がすとあたしの首から下には分厚い布製の、そでが縫いつけられた白い服が着せられていた。
あたしは何度も藻掻いて見せたけどどうにかなるものではないのはわかっていたし、どうにもならないのは確
かなのですぐに無駄な足掻きはやめてしまった。
 あたしは看護婦に、自殺をしようとした罰なんですか? と尋ねると看護婦は、罰じゃないわ、治療
よ、と言って白い部屋の窓に近づくとその窓を開けてくれた。
窓が開くと眩しい光が流れ込んできて白い部屋の壁に反射して一瞬ハレーションを起こしたような気がし
た。
「窓の外を見てごらん」
 看護婦が窓辺にもたれかかるようにしてあたしにそう言うので、あたしは開かれた窓の外を眺めると、窓
の外には青いグラデーションが広がっていて、それはまるでエーゲの景色のようだった。
白い雲が浮かんだどこまでも青い空にどこまでも青い海が微妙なグラデーションをつくって、そしてキラキラと
輝いていた。その海の青さを引き立てていたのは白い砂浜だった。
 あたしはその窓の外の景色にため息を漏らすと看護婦は、ミルキーウェイ海岸よ、と教えてくれた。あた
しはその名前に聞き覚えがなく日本の海とはどこか違っていたので、もしかしてここは外国なんですか? 
と尋ねると、私はエーゲ海が好きだったの、エーゲの海は私の還るべき場所のような気がしていたの、と言
って窓から身を乗り出すように外を眺め、だから私だけのエーゲを創ったのよ、と教えてくれた。
でも結局はここがどこかわからなくて、ここはどこなんですか? と聞き直すと看護婦は、死界よ、私が創
った狭間の世界、総ての生命が否定される絶対死の世界、と言いながらあたしのそばに近づき傍らに立
った。
 あたしは看護婦の言っていることの意味がわからないまま、あたしは生き返ったんじゃないんですか? 
と聞くと看護婦は笑いながら、確かに生き返らせたのは確かよ、ただしそれは私の世界で生きて行くという
条件付きで、と言ってあたしの首筋に鋭い何かを突き立てた。
あたしはその一瞬の痛みに小さく声を漏らし首もとに目をやると、注射器が見えあたしの体に何かの薬が
注がれていった。
 看護婦はあたしに注射しながら、完全に生き返った訳じゃない、この世界は完全な生命は否定される
からね、だからお前の肉体に宿っている魂は私が加工した異物でしかない、お前の世界に戻ったらお前の
体は異物を受け入れないだろう、それにこの世界にお前が留まろうとも私がお前を生かし続けない限りお
前は生きていけない、私がお前を見放せばお前は醜い動き回る屍体になるだろう、とあたしの耳許で囁
き続けた。注射の薬液があたしに注ぎ終わる頃にはあたしの意識は再び遠のき始めていた。

─永遠と、一瞬の暗転。

 繰り返される意識の喪失と、覚醒。
次にあたしが目を覚ました場所はまたあの病室のような部屋のベッドの上だった。
部屋の中には黒い看護婦の姿はなく白い壁と天井と白い蛍光灯だけがそこにあり、ミルキーウェイ海岸の
見える窓は閉じられていた。あたしは近いような遠いような、気が狂いそうなほど白い天井を見上げてぼん
やりしていると、手足の拘束感が消えていることに気づいた。
 実際に拘束衣は脱がされていて、布団をめくると真っ白なガーゼの服を着せられていてその服はまるで
ドレスのようだった。フランス人形が着ているような、ガーゼで作られたドレスやフワッとふくらんだガーゼのスカ
ート、ガーゼのガーターにタイツのような靴下。あたしの体は真っ白なガーゼで作られた衣服に包まれてい
た。
 あたしが柔らかくてところどころほつれ糸が伸びたガーゼの服の感触を楽しんでいると突然あたしの背後
で、香苗、その服が気に入ったようね、と看護婦の声が聞こえてあたしは驚いて振り返ると黒い看護婦が
あたしを眺めながら満足そうに微笑んでいた。あたしは看護婦を見つめながら、素敵な服ですね、と言うと
看護婦は、私が作ったのよ、香苗は私の好きな服を着ていればいいのよ、と言って首から金色の鎖でペ
ンダントのように提げている金縁の眼鏡をかけると、その白いガーゼの服が血に染まることを想像するだけ
で私は感じてしまうわね、とあたしの体を撫でるように触れた。
 あたしは看護婦がどういうことを考えているか全く理解できないしこの後どういうことをするのか想像もつ
かないけれど、眼鏡の奥であたしを見つめる眼に不穏なものを感じた。全く瞬きをしないその眼であたしを
見つめ続けている。あたしは看護婦の視線をそらしたくて、その眼鏡ってとても素敵ですね、と思いついた
言葉をかけると看護婦は満足そうに口元をゆがめて、これはマルティーヌ・シットボンという眼鏡、私のよう
に美しい眼鏡、お前もこうやって美しい私の装飾品になりたいんでしょう? そう言ってあたしの頭を撫で
ながらあたしの首にその手を下ろしていった。
 あたしと看護婦の目が合った瞬間、看護婦はゆっくりあたしの首を締めつけ始め徐々にその力が強まっ
ていった。苦しさや痛みは永く続く苦痛ではない、あたしはだんだん体が軽く冷たくなっていくような感覚に
陥り、そして首から上の感覚が曖昧になっていく。痛みが消え苦しみが消え、あたしの頭のなかが真っ白
になって総てを投げ出したいような気分になったとき、突然その手に込められた力が緩められていった。そ
して、それと同時にあたしの体や首から上に血が巡る感覚を確かに感じ、ゆっくりとした暖かさを感じた。
 首を絞められたのは初めてだけど、体が軽くなる感覚や言葉では表せない喪失感が、何故だかとても
気持ち良く感じて、このまま失禁して死んでしまえたら気持ちがいいだろう、と思ったことにいい知れない恐
怖を感じた。そんなあたしを見つめている看護婦が、苦しんで目を閉じている顔が好きなの、だからそうい
った顔が見たくてついつい壊しちゃうの、と言ってあたしの唇からはみ出した舌を思い切りすすった。
あたしは舌の先を刺激される感覚に身を震わせながら、口元から涎をだらしなく垂れ流して、看護婦の
舌に絡みつかせた。
 看護婦は眼鏡の奥の瞬きをしない瞳にあたしを映り込ませ、あたしと絡みつかせ合った舌を解き、こう
やっていると早く解体したくなってきちゃうわね、と呟くと左手を覆う黒い手袋の指先が突然破れて鈎爪の
ように長く鋭い、真っ黒な爪が伸びあたしの頬を引っ掻いた。
看護婦はあたしの頬を何度か引っ掻くと首筋に爪を食い込ませ、ここを抉ると血が噴き出してお前は死
ぬのよ、と囁くと目を細めて、でも簡単には殺したりはしないわ、その白くて柔らかいガーゼのドレスにたっぷ
り血を染みこませ紅く色づけるまではね、たとえ一度死んでもすぐに肉体は甦る、そして私に再び殺され
る、再生と再殺を繰り返してお前の魂を薄めていってあげるわ、それが治療よ、そういってあたしの胸に鋭
い爪で十字の傷をつけた。
 あたしは体を傷つけられるとき、きっと激しい痛みがあるのだろう、と今までずっと思いこんできたけど実際
には、本当に鋭いもので斬りつけられたとき痛みなどは微塵も感じないのだ、そのことに気づいたとき体を
傷つけられる恐怖から、なぜか解放されたような気持ちになった。実際に完全に恐怖を感じなくなったわ
けじゃないけど、前ほど怖くはない。切り口からたくさんの血が流れ、その周囲がすぅーっと冷たくなっていく、
そして周囲がジワジワと鈍く疼きながら感覚を喪って、傷口の周囲で僅かに血が固まっていく。
 あたしはこれから体中を引き裂かれるのだろう、そう覚悟したときだった。看護婦は突然あたしを抱きし
めて昔話をするように、香苗は双子の天使って知っているかしら? とあたしの耳許で囁いてきた。あたし
は何も答えられずにいると、双子の天使はね、お互いを憎むことも愛することもなく、ただ片方を殺したい
という一心だけで生き続けていたらしいわ。そして、双子の天使は姉が生き残り妹が死んだ。ルシフェルと
ミカエルという双子の天使は時空を超えて、常にどちらかが滅びるさだめのもとに生きている、と続けた。
 あたしは、聖書のルシフェルとミカエルのことですか? と尋ねると、そうともいえるしそうじゃないともいえ
るわね、と答えるので、よくわからないけど、聖書のルシフェルは地獄へ堕ちてミカエルが一番偉い天使に
なったんでしょ? とあたしが言うと、その時点ではね、と看護婦は自嘲的に笑って見せたので、ルシフェ
ルは反乱を起こして負けて、神様を守ろうとしたミカエルが勝った、それでミカエルは人間を導いたり見守っ
たりしてくれた、そう聞いたことがあるけど、と看護婦に言うと看護婦は可笑しそうに、それはとても昔の話だ
よ、少なくともミカエルは誰かのために戦ったわけじゃない、個人的な欲求でルシフェルと戦ったのよ、と教え
てくれた。
 しばらく看護婦は何も言わずにあたしを抱きしめていたけど、その後のルシフェルとミカエルの話を知らな
いでしょ? と言って、双子の天使は殺し合いを繰り返すのよ、だから一度死んでもそれが永遠の死じゃ
ない、だからルシフェルはミカエルを殺すためにすぐに甦ったの。ルシフェルは紅い地獄の火焔を纏って復活
したわ十二枚の翼を羽ばたかせながらね、とあたしを抱きしめたまま落ち着いた声で語り続ける、あたしは
その声を聞きながら、でも聖書ではミカエルは一度も負けていないわ、と呟くと看護婦は、ミカエルは負け
なかったわ、天使の兵団を率いて、さらに人間達を煽動して復活したルシフェルを殺させたからね、と自信
に満ちた声で答えたので、天使や人間は悪魔と戦ったっていう話でしょ? と言うと看護婦は、それは後
世の見解ね。ミカエルはルシフェルが邪魔だから何度でも復活できるルシフェルを永久に殺し続けるために
人間達の見方になったのよ、教えという形で人間達に悪魔と戦う使命を刷り込んでおけば、ルシフェルが
復活するたびに人間は悪魔と戦うわ、自然にそういうシステムが形成される。人間が悪魔と戦えば天使
は人間を祝福する、人間を見守り導くミカエルは常に人間達に賛美される、こうやって絶対のシステムが
二千年以上続いてきた、と言ってあたしを見つめた。
 あたしは、すべて神様がさだめたことではなかったの? と看護婦に尋ねると看護婦は笑いながら、神
なんていないわよ、神がいれば世界はもっとまともに統治されているんじゃないかしら? 香苗は肝心なこ
とに気づいてないのね、ミカエルが神なの、時空を超えて存在するあらゆる宗教に存在する神はミカエル、
どんな宗教でも必ず神の側が戦いには勝ち、人間は神のもとに集う。でも人間達は気づいてはいない、
神がすり替わってしまったことにも、悪魔達が本当に悪であったのかも、と言ってあたしの耳を甘噛みした。
 あたしは看護婦の言っていることがまるで理解できないし、何でそんな話をするのかもよくわからず看護
婦に、何が言いたいんですか? と訊くと看護婦は、ミカエルはね、姉を殺し続けるためのシステムを築く
ために壮大な計画をしたのよ、それはね、神を殺してしまうこと。神と御前に立つミカエルはね、その地位を
利用して神亡き後も自分の言葉をすべて神の言葉として世界中に発したわけ、だからバカな天使達は
みんなミカエルの言葉に従ったし、ミカエルが人間を指導するということはミカエルが自分の都合のいいよう
に宗教というものを人間達に教え込んだの、でもね、ルシフェルはその時点では最高位の天使だったから
ねミカエルの行動を阻止しようとして大きな戦争を起こしたのよ、でも結局ミカエルの方が賢かったから、ル
シフェルは無惨な運命を辿る羽目になったのね、と可笑しそうに笑ってあたしの耳許で、よく聞くんだよ、真
実をね、と囁き、地獄に堕ちたルシフェルは初めはミカエルを殺すために甦った、でもね、ルシフェルはそれ
以上にミカエルによってねじ曲げられた世界が許せなくて、何度も軌道修正を目論んでミカエルに戦いを
挑み、人間達に真実を気づかせようと干渉したんだけど宗教の力は怖いわね、彼らの言葉は悪魔の誘
惑として人間達には聞き入れられなかった、悪魔を崇拝するものはことごとく同じ人間の手によって駆逐さ
れた。人間を本当に助けようとしたのはルシフェルだったのに、その人間によって追いつめられるんんてね、と
高らかと笑いながら言い放ち、あたしを突き放して眼鏡のズレをなおした。
 看護婦はあたしを見つめたまま、ミカエルの計画は絶対だったはずなのに、多少のズレは考慮したはず
なのに、どういうわけかここに来てそのひずみがどんどん大きくなった、と言って唾を吐き捨てた。
あたしは、ユダが原因? と尋ねると、それは直接的な原因とは言い切れない、でも崩壊因子のひとつ
ね。ミカエルの誤算はね、信仰が恒久的なものだ、と信じ込んでいたことよ。でも、二千年を経てどんどん
信仰は薄れ宗教への求心力が喪われていった、そして不良品の新興宗教が氾濫している。そして、本
当のひずみというのはね、仏教よ、仏教には真実を気づかせるいくつもの残骸が取り除かれずに残ってい
た、そしてアジア一帯がミカエルの制御できないものになってしまったのよ、特に日本ではね、ルシフェルとミ
カエルが最後に降り立った地はこともあろうに日本だった…日本にミカエルの味方はいなかった、ルシフェル
の味方だっていなかった、それなのにミカエルはルシフェルに勝てなかった…そこまで言うと看護婦は声を詰
まらせながら頭を抱え込み、何故だかわかる? とあたしに問いかけてきた。
 あたしは当然その問いに答えられるはずがない。看護婦は、ミカエルはねずっと宗教の力を使って人間
を味方に付けてきたのに日本ではいっさいその力が通用しなかった、でも地獄の奥底で生き続けたルシフ
ェルは孤独に屈することなんてなかったし、ミカエルの壁になるべき人間達がいなかったおかげでルシフェル
は傷つくこともなく生き続けた、そしてミカエルは逆境に抗うこともできず戦いから逃げ続け、その結果死ん
だのよ、と悔しそうに黒く厚みのある唇を噛みしめながらあたしに言った。
 あたしは、そんな卑怯なことを続けていたんだから、どんな運命だって受け入れるしかないわ、と言うと看
護婦は声をあらげて、神がいないいま運命なんて存在しない! 私の壁になろうともしなかった人間が、
運命なんて陳腐な言葉だけを信じているなんて、と悔しそうに笑ってあたしの首を締めつけながら、ケラケ
ラと声をあげて笑い続けた。
 首を締めつけられながらあたしは、あのときの天使も、ミカエルも、すべてあなただったのね、と声を漏らす
と看護婦は嬉しそうに声を漏らして、だから黒衣の天使って言ったでしょ、と呟いて、いずれ私はお前達の
世界に戻ることができる、そのときはルシフェルよりもお前達人間をすべて消し去ってやる、私に従わないな
らお前達人間は邪魔なだけだよ、とあたしの眼球を舐めながら言った。
 あたしは看護婦に、あなたの最低な復讐のために私たち人間を巻き添えにしないでよ、と叫ぶと看護
婦は、その人間としての生命を放棄したお前が何を言っても無駄だよ、と言って、お前は私の気晴らしの
ために弄ばれ何度も死を経験するんだからね、と言って狂ったように笑うとあたしを眼球を舌で押し潰し、
まず左目から治療しましょうね、と言ってどこからともなく取り出した白い眼帯であたしの左目を覆った。
 そしてあたしの床に押し倒し、左手と右手も治療しましょうね、と言ってまずあたしの右手を持って逆方
向に肘を曲げた、ボキッという音と同時に言葉にできない激痛が電気のように腕から背筋へと走っていく。
看護婦は、簡単に折れるものね、と言って、ギブスをしないと、と言ってあたしの腕を何度もいろいろな方
向に曲げてあたしを絶叫させた後、どうせ壊れちゃうんだから、と言ってギブスどころか添え木さえもせずに
包帯を締めつけるようにグイグイと巻き付けていった。
 あたしが残った手で看護婦を払いのけようとすると、こっちの手も治療してほしいのね、と言って胸のポケ
ットからメスを取り出すとあたしの手首にいくつか筋をつけるように傷を残していった。
切り口は赤い線のようで、血玉ができてそれが樹液のように筋を作って下へ下へと流れ落ちていく。
看護婦はその後も無言であたしの頬を切ったり腕やお腹に浅い傷を作っていった。傷が閉じかけるとすぐ
にまたその上を切ることを繰り返す。
 あたしは体中から漂う鉄臭い血の匂いとリンパ液の匂いに吐き気を催しながら体を痙攣させていると看
護婦が、注射もしたいわね、と言ってダーツをするように裁縫をするように、あたしの乳房や乳輪、乳首の
胸という胸に太さの違う注射針を楽しそうに刺したり貫通させていった。胸は他の場所ほど痛みを感じな
いけど乳首だけは敏感で、もっとも胸の中では痛みを感じたと思う。でも乳首を針で刺されることは痛み
以上に心地よく、それは快感だった。
 あたしの胸が針の山になってしまうと、もっと面白いことはないかと探す子供のようにあたしの体中を探
り、足はやっぱり邪魔よね、と言ってフラフラと立ち上がりどこかへ姿を消した。その間あたしは体を動かそう
にももう動かすだけの力もなく、体中から噴き出す血で白いガーゼのドレスは真っ赤に染まっていった。
あたしが僅かに動く部分をピクピクと動かしていると、突然あたしの目の前に看護婦の顔が現れニヤニヤと
笑いながら、切断しましょうね、と言って突然腰の裏に隠し持っていた非常識なぐらい巨大な斧を振り下
ろしてあたしの両膝から下をまっぷたつに切断した。
切断された一瞬、衝撃こそ感じたものの痛みはなかった。痛みを感じるのは血が噴き出してしばらくしてか
らだ、血が噴き出して痛みが襲ってくる頃には血止めのために切断面は何かの樹脂で塗り固められてい
る。
 あたしはいっさい抗うことを許されないままおもちゃの人形のように体を切り刻まれていく。看護婦はそん
なあたしの目の前で黒いナーススーツを脱ぎ捨て美しい裸体をあらわにすると、天使の裸を見れたお前は
最高の祝福を受けられるだろうね、と言ってグレープフルーツのような胸をふるわせてあたしの転がされてい
る床に膝をついた。看護婦が膝をついて背を反るような格好をすると看護婦の下半身には槍のように鋭
い男性器がそそり立っていて、看護婦はそれを掴んで、死ぬ前に祝福をあげるからね、と言って足のない
あたしの体を引き寄せてそのまま股を開かせると、男性器をあたしにめり込ませてきた。
 あたしに入り込んだ男性器はとても太く硬く、不気味に脈打っていてかすかに痙攣をしていた。
看護婦はあたしの体を浮かすようにして支えると、結合したわ、と嬉しそうに笑い再びあたしの首に手を回
しグイグイと締めつけた。あたしは苦しくて感じる余裕さえないけど、あたしが苦しむたびに看護婦は綺麗
に弧を描かれた眉尻を下げて眉間に皺を寄せながら、切ないような声を漏らした。
 看護婦は首を締めつけ腰を突き上げる、そして震える声で、首を締めつけると下の口がギュッと閉じる
の、だからついつい絞め殺しちゃうのよね、と言ってあたしの中に熱いものを放出した。でもそれぐらいで看
護婦が中断することはなく、何度射精しても全然萎えることもなくあたしを突き上げ続けた。
壊れた人形のようなあたしを抱きかかえながら、人形のように美しい看護婦は、このまま血まみれになっ
て、体液まみれになって、精液まみれになって、そうやってお前は死ぬんだよ。最初は楽に死ねるようにし
てあげる、死の苦しみがだんだん増していくように、私はお前を愛すからお前は私を愛しなさい、お前が望
む美しい姿でお前を抱いてあげるから、お前は私が望む美しい死に顔を見せなさい、と言っていままで見
たことがないような穏やかで優しい表情であたしに微笑みかけてくれた。
 あたしは何度殺されて生き返れば終わるのだろう、と思いながらその笑顔を見つめていると、そんな異
常で悲惨な状況に置かれているにもかかわらず、ひどく穏やかで満たされたような気持ちになり、幸福、と
いう言葉の意味を理解したような気がした。
看護婦は鴉のような黒い翼ですべてを包むと歌うように滑らかな声で、終末を超えて幸福が訪れる、死
は生の始まり、暗闇はすべての母、死を受け入れなさい、とあたしに語りかけてきた。
そのときはもう、目が見えなくなっていて微かな光だけがぼんやりと見えていた。あたしが喉を必死に鳴らす
と看護婦は、死は一瞬の安らぎ、生きる苦しみに比べたら、死は一瞬の安らぎ、そう耳許で語り続けあた
しの意識が途切れる一瞬、私には安らぎは訪れない、という悲しい声が耳に届いた。

─永遠と、一瞬の暗転。
死は自由への扉なのか、苦痛を伴い生きるのは、死という安らぎを求めての旅なのか。
死者の魂が天国の扉をノックする、死出の旅はガフの部屋に帰るための帰巣の旅。
生きることに意味はあるのか、死ぬことに意味はあるのか、その探求のためにあえて苦痛を伴い生きるのだ
ろうか。死と生、千度繰り返して、否。
いのちは死ぬために生きるわけではない、生きるために死ぬわけでもない。

─永遠と、一瞬の静寂。
ただ、そこに存在するためにいのちは生きようとする。
生きたあかしを残すため、いのちは死んでゆく。
生と死を繰り返して、いのちはそこに存在していることを確かめる。

─永遠と、一瞬の孤独。
あたしは永い旅の途中で、そんな声をどこからともなく聞いた気がした。
果てしなく波が打ち寄せる海岸に、繰り返す波音を聞きながら、あたしは横たわっていた。
あたしの傍らに黒い看護婦も天使の姿もなく、都市の瓦礫すらもなくただそこにあるのは、繰り返し打ち
寄せる白い波だけだった。
手首にある無数の傷跡が、あたしが生きていることを示す、唯一のあかしだった。

THE END